すれに、うしろの押入れへぶち込んだ。七八人いて蒼白になった。
もう一つは、学校の前の電車である。木の電柱が、線路とすれすれに立っているが何んしろ電車の珍らしい時分で、車掌など生徒に、運転させたりして、乗客なんぞ殆どなかった。この電車へ、飛びのりするのが、生徒の楽しみであるが、次々に、飛び乗るので、踏台へばかり気をつけて、電柱の方を見ないで、電車につかまりながら、走っていると――どかん、真正面から、胸を、電柱へぶちつけた。呼吸が止まって、暫く電柱を抱いたまま
(やられた)
と思っていた。誰一人、これを知らなかったらしく、暫く、一人で、そうしている内に、少しずつ回復してきたが、歩けないで、門番の所で寝ていた。真正面へぶっつかったのでよかった。あれで、電柱と、車台の間へでも、捲き込まれていようものなら、直木三十五なんぞは、此世にいない訳である。
十七
小説を書く位だから、中学では作文がうまかっただろう、と、素人が、よく聞くが、それが即ち、素人考えで、私は絵の方がうまかった。絵は、八十点以下に下らないが、作文は七十点、歴史などは吾三歳にして既に四王天但馬守を知る、であるのに、ようよう八十点。この点数を、数学と、英語が、めちゃめちゃにするので、平均点が、六十五六、卒業の時、びりから八番は、当り前である。
五年になると、そろそろ次の学校を選ばなくてはならぬが、私は哲学者になるつもりでいた。
小説を書こうなどと考えたのは、早稲田へ入ってからで、文科へこそは入ったが、漠然と、文科へ入っただけで、小説など書く気は、少しもなかった。だから、哲学の本は、相当に読んだが、この五年生の時に刊行されたのが、姉崎正治博士の、ショウペンハウェル原著「意志と現識としての世界」というやつである。それまで、相当、難解の書も読んだが、判らないというのは殆ど無かったが、この「意志」は、何う引っ繰り返して見ても、殆ど判らない。
(これが判らんようでは哲学者になれんぞ)
と口惜しさ、心細さ、悲しさ――一冊だけこの本を借出して、図書館で、三日努力してみたが、判らぬものは判らない。今でも、この本は判らぬが、これは、余程哲学志願心をへこました。
(中学五年にもなって、こんなものが判らんようでは)
と、当時、少し、淋しくなったのを憶えている。父は
「商科か、法科か、医科がええ」
と、商科は金が儲かるし、法科は恩給がつくし、医科は
「薄さんに頼んだるさかい」
と、この三つにきめてしまっていて
「高等学校は岡山がええ、わしも、もうこの齢やさかい、お前の高等学校を出るのを見て死にたい。高等学校だけは、やっといてやる」
父が四十歳の齢の子だから、二十で中学を出ると、父の齢は六十、高等学校卒業までしか生きていられないと考えたのも尤もである。だが、何んと今年私が四十三、父が八十三になって、父は、未だかくしゃくとしているのに、私がこの体なのだから、私としては、この父の死ぬ前に、私を死なしたくないと考えている。それに、この編輯者め――悪魔である。父が見たら、何んなにびっくりするであろうか。月収六七十円の古着屋の、六十歳の親爺が、月二十五円ずつを倅の為に割《さ》いてくれたのである。
十八
父が八十三歳にもなって、私が「死までを語る」を書いたのを読みでもしたら
「宗一、ほんまか」
と、それだけで、三年位齢をとるであろうが、絶対に読みっこは無いし、近所の人も、恐らく
「宗ちゃん、えらい事書いてはりまっせ、ほんとですか」
と、父に聞く事も無いであろう。一心に、金、金、金、金儲け金儲け、とだけ念じている人達の集っている町であるから、こんな事が平気で書けるが、これだけ、印刷文明が普及されていて、猶かくの如き、私の出生町内である。二十余年の昔
「文科へ行く」
とでも、云おうものなら
「文科て、文士か」
と、それこそ、何う叱られるか、わからない。私は、早大文科と決心していたが、一言も、この事は喋らなかった。だが、卒業すると、何うしても、次の学校へ行かなくてはならぬし、父の決心が悲壮であるから
「岡山へ行って法科を受ける」
と、云っていた。
「弁護士はあかん、官吏がええ、恩給がつく」
と、貧乏で、六十歳になっても、古着を背負って、電車の無い頃の大阪の隅から、郊外の遠くへまでも歩かなくてはならぬ父にとって、恩給という事が、何んなに有難く見えたか!
「しっかりやれ、人間も、恩給もらうようになったら楽や」
国を出奔してきてから、最高収入六七十円の父は、四十年間を、働きづめに働いてきて、猶働かなくては暮らせないのである。
だから、恩給恩給、と云うが、何んと私は、岡山へ行って、試験の日、半日、旭川で、ボートを漕《こ》いでいたのである。
最初の日に、数学が出なか
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