も真っ暗である。
(おや)
と、おもった瞬間、現れたのが、井戸を留守にしていた幽霊である。がその刹那に、猛烈に掴みかかったが、それより三十年、幽霊の夢は一度も見なくなってしまった。如何に、この時、しかく、恐ろしかったかは、今でもその夜の夢を、はっきりと思出す事ができる。
十四
中学は、市岡中学である。出来てから、四年目で、校長は、坪井仙太郎と云った。市内には、北野と、天王寺と、市岡の三つである。新らしいし、遠いから、競争者も少いだろうと、ここへ願書を出した。
市岡という所は、西瓜の名産地で、今こそ町になっているが、田圃の真中に、学校が一軒ある切り、前は、尻無川まで見えるし、右は、築港まで一目である。
水道が引けたり、電燈がついたりしたのも、その頃であるから、市内電車など無論ない。築港、松島間に一線あるきり――私の家は、大阪の東の端近く、学校は市内を離れて、西の方までが、田圃の中、二里以上三里近くもあろうか。入学した成績は、一級四十人中、尻から十六番目。父に叱られて、次の学期に、上から十四番目になったが、それが、私の最高レコードで、卒業の時には尻から八番目であった。
十三歳の時に、腸チブスになって、それ以来、すっかり、健康体になった私は、とうとう中学五年間、一日の休みもなしに、この遠い道を歩いて通った。二年生時分から巡航船という、河々を通る石油発動機の船ができ、車夫が、この船を襲撃して大騒動を起したりしたが、速力がのろいし、迂廻《うかい》するので余り乗らなかった。乗る金もなかった。
発育盛りなので、洋服が、すぐ小さくなる。しかし、それに応じて買えぬので、いつも、寸づまりの、手首のうんと出た洋服をきて、ぼろぼろの靴に、破れた帽子をかむっていた。
当時、何ういうのか、美少年を愛する事が、中学で流行していたので、破帽破靴の風は、豪健と見るや、わざわざ破る者さえ出来たので、私は、ますます平気になって可成り、先生から注意された事もあった。
遠いから、弁当をもって行くが、アルミニウームは、もう使っていた。電燈、水道と同時代に、こいつも一般化されたらしい。この弁当の菜が、油揚げ、湯葉と、きまっていた。湯葉も、薄い普通のではない。湯葉を竹にかける時、竹につく滓《かす》の厚く、固くなって、竹のかたのついた奴である。私が、骨屋町へ無くなると買いに行った。
「又、湯葉か」
と、隣りの友人が、箸でつついたので、そいつの弁当を叩き落とした事があった。中学五年間、この油揚げと、湯葉で一貫した。
十四番が最高で、成績はよくなかったが、その代りに、初めて出来た中之島の、大阪市立図書館へ
「図書館へ行かんとあかん」
の、私の一言で「真平御免」の父は
「そうか」
と、許してくれた。二銭で、一時に、三冊貸してくれる。学校から戻ると、中之島まで――これが又、相当の道のりで、恐らく、今の、バス、電車を利用する学生にはわかるまいが、雨が降り出したり、つい遅くなって、夜に入ったりしては、相当つらいものであった。
今でも、司書をしておられるか――名を忘れたが、細面の、病弱らしい、出し入れのかかりの人が、三年余り前、大阪へ行った時、一寸行ってみたら、未だ在勤で、挨拶をされてなつかしかった。
ある一つのカードの函などは、ことごとく読んでしまった。歴史、数学、文学に亙って、読んだの、読まぬの、貸本屋以来の渇望で、めちゃめちゃに読んだ。
私は、記憶力の点に於て、殆ど零に近く、人の顔や、名を忘れる事には、いつも呆れているが、本を読んで忘れる事も、人後に落ちないつもりである。それだけ読んで、何か憶えているかと、云われると、何一つ憶えていない。しかし、憶えているのがいいか、忘れてしまうのがいいかは、俄に判断は出来ないと、信じている。多く読み、ことごとくを忘れると、物の見方、考え方が公平になって行くようであるし、一旦読んで忘れたものは、読まずに知らぬのと、丸でちがう。何か、機にふれると、ふっと思出す。必要があると、ああそうだったと思うことがあるし――この点に於て、読んで忘れて、現在零なのと、知らぬから零なのとは、天地のちがいである。僕らは、凡庸だから、憶えていて、別の物を入れる妨げになるより、ことごとく忘れて、ことごとく入れた方がいいらしい。
十五
智識は豊富になったが、記憶力が悪いし
「何んだ馬鹿馬鹿しい、ツィンクル・ツィンクル・リッツル・スターが何うしたんだ」
と、すっかり、英語を馬鹿にした。いつも、六十五点か、七十点位であった。数学はから駄目。中学五年の時は、三角であるが、とうとう教員室へ行って
「私は、哲学か、文学をやるんです。それも、私立へ入るつもりですから、三角の必要は、絶対にないと思います。必要の無いものを、何も苦しんで
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