行く時分、もう居なくなって、そのあとが私の部屋になったのであるが、この人へ、飯をもって行くのが、私の役目であった。矢張り、家へ戻ってきて、午餐《ごさん》をとるのであるが、母は、仏前へ飯を上げると、次に、この老人の所へもって行く。私が上って行くと、老人は、上品な、白髪、白髭で、歯がなく、もぐもぐと口を動かしつつ、微笑して、私に何か云うが、少しもわからないので、おしまいには、段の途中から、膳だけ置いて、降りる事にしてしまった。明治二十何年からの日記が、ことごとくあるが、読みづらいので、そのままにしてある。
この頃、いくらか、商売がよかったらしく、品物が店に狭いまでに置いてある日などがあった。それにしても、今、数えると――店の入って左側に吊るしてあるのが八枚、その奥に十二三枚、店に二列に、縦にかけてあるのが十六枚、その着物の間々に、股引だの、襦袢《じゅばん》だの、一枚二円ずつにしても、六七十円の品である。
しかし、三円から、六七円の売れ行きがあったし、三割近い利益であったから、店のこの小売と、仲間同士のやや大口の商売で、六、七十円の収入にはなっていたらしい。
「月、百円儲かったらなあ」
と、云っていたのを考えると、この辺は間違っていない。私が、十三四、親が、五十三四であるから、この収入が、父の最大収入であったのであろう。
十三
高等小学の記憶は、尋常よりも少い。その代り、少しずつ、乱暴者になりかけていて、こういう記憶がある。
それは、この当時まで、大阪には、堂島高等女学校より外に、女学校が無かったが、京都に、清水谷高等女学校ができた。この女学生が、学校の前を通るが、雨天運動場へ出ると、すぐ前が、空堀通なので
「あいつ、別嬪《べっぴん》やな」
とか
「左向け左っ、こらっ、鼻ぺちゃ、向かんか」
とか、私の外、二三人がやり出して、とうとう、雨の日には、女学生達、向う側を傘でかくれて通るようになった。所が、一日、金曜日の訓話の日、校長が
「本校の生徒の中に、品性を重んじない者がおって」
と、やり出して、とうとう、窓側へ、近づけないように、雨の日には、生徒の中から監視が立つ事になった。中学へ行ってから、夕陽丘女学校ができたが、私と河合二人が、夕陽丘の、藤原家隆の墓の前へ立って、女学校の方へ向いて、四人とも、小便をし、これが、市岡中学の生徒と、何うして判ったのか、女学校から、かけ合にきて、びっくりしたのと、こういう話は、二つもっている。
それから、私が、金を盗んだ話であるが、第五回内国博覧会は、いつだったであろうか、三十五年か、六年とすれば、高等小学三四年であるが、これは細かに憶えている。
この博覧会に、カーマンセラ嬢電気の舞というのがあった、これを何うかして見たいが見せてくれそうにない。それで、一円盗んで見に行く決心をしたが、貧乏の家に盗める一円なんぞ有ろう筈がない。それで一策を考えて、店の金を入れる張り子の小さい籠を利用する事にした。渋紙張りの汚い四角の籠。上部に太い竹を使ってあるが、この太い竹と、その下に使ってある、へいだ竹との間の渋紙が、破れている。逆様にして、金を出すと、その破れへ一寸引っかかる事がある。私は、その破れを大きくして、その間へ、五十銭を入れる事にした。見つかって、引出せば元々、夜計算をして首尾よく、引っかかったままで通過すれば五十銭になる。
「五十銭足らんがな」
父は、ぽんぽんと、籠を引っぱたくが、五十銭は、破れ目の奥深く入っていて、出て来ない。
「わて、知りまへんで」
と、母がいうし、私は一生懸命だ。
「五十銭、負けたん忘れてんね、ちがうか」
一週間程かかって、ようよう一円盗んだ。それで、カーマンセラなるものを見に行った。「胡蝶の舞」一つ。スカートを大きく拡げるカーマンセラに、色電気を当てるだけの事である。余りつまらないので、冷汗かきかき一円盗んだのを後悔して、二度と、籠を利用しなかったが、本当に、手に汗を握っていた。
多分、この時分であろうと思う。怖ろしい夢を見るのが毎晩で、仕舞いに、夜になると、恐ろしさに、眠るのが嫌になった。夢は、ことごとく幽霊で、大抵、それがきまっている。「おんちゃん」の右側に、露次があって、その奥に井戸がある。上町の事とて、可成り深い、この井戸をのぞくと、中に、幽霊がいるのであるが、毎晩の夢にのぞいては、恐怖に、眼をさまして、蒲団の中へもぐる。耐えられなくなって
(幽霊なんぞ有るものか、夢じゃないか)
と、決心した。そして
(今晩見たら、掴みかかってやる)
果して、又井戸をのぞく夢であったが、幽霊はいなかった。露次を抜けて「団仲」という牛肉屋――今でも上町第一の大店であるが、ここに、卯のやんという友達がいて、時々遊びに行った――へ入ると、上り口も、奥
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