のは、遥かに後であった。
 この貸本屋一件が、転じて、図書館行になるのであるが、私が尋常小学を出て、高等小学へ入ると共に、成績が、中位になってしまったのは、この貸本屋の御蔭である。
 尋常小学での、私の記憶は、この位しかない。幼稚園で、初めて習った唱歌が
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霞か、雲か、はた雪か
とばかり匂うこの花盛り
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 であるとか、日清戦争の直後とて
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煙も見えず、雲もなく
風も起らず、浪立たず
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 のような軍歌が、盛んだった記憶があるが、それは、私一人だけの話でないから、省いておく。

    十一

 高等小学校は、空堀筋、骨屋町角の、育英第一高等小学校というのである。何んしろ、制服制帽を着るのだから、うれしくて写真をとって、大和の親類へ送った。こういう写真があるとなつかしくていいが、家ぐるみ差押えられて、素っ裸にされた時、その中へ入って、何っかへ行ってしまった。雑誌から、時々、子供時分のをと云ってくるが、私の写真は、それ故、最近五年以内のものの外一枚もない。これが、私が写真をとった最初である。その次は、卒業式の時、中学へ入っても、卒業式の時のだけ――だから、余計、この写真の無くなったのが惜しい。私の子供時分のたった一枚の写真である。
 高等小学へ入っても、学校の生活以外は、子守、洋燈掃除、惣菜の買出し、丁稚《でっち》代りであったが、そろそろ大きくなるにつれ、今度は、父が
「店番しろ」
 と、云い出した。父が、買物に出ている間、母が夕飯の支度でもしていると、店へ客が来ても、便利が悪いので
「十三にもなったら、店番でけるやろ」
 である。
「うん」
「符牒《ふちょう》教えたる」
 古着屋の符牒は、今何うか知らぬが「タカラモツシヤワセ」というのであった。これへ、五をかける。だから「タ」は、五銭か、五十銭か、五円かである。「タツ」は「タ」を五に五番目の「ツ」で、五に五をかけて、二十五、計七十五銭が元値で、これに、一円四十五銭位の札をつけ、二十銭引いて、一円二十五銭で、五十銭の利というようなものである。
「おい、坊《ぼん》さん(小僧のこと)まけとき」
 と、云われて
「まかりまへん」
 と、本を読んでいた記憶が可成りある。こんな時には、狭いから、すぐ母が出てきて、応接する。私は、母と入れかわって、台所へ出て、菜を洗う、というようなものである。
 この店にいる間に、着物に対しての智識は、相当にできた。私が、早稲田へ行っている頃まで、着物は、今のようにいろいろの名がなかった。縮緬《ちりめん》、七子《ななこ》、市楽、薩摩、御召、大島、結城位の区別で、その上に、何々御召と名のつき出したのは、ここ二十年位の事で、私は、父が
「こう、変った名ばっかりつけよったら、一々憶えられんがな」
 と、ぶうぶう云っていたのが、今でも、眼の中にある。
 それから、解き物がうまい。これは、今でも自信がある。古着は、着物の形のまま売って利のある事もあれば、表と、裏とを離してしまって、別々に売って、利の多い事もある。この表と、裏とを離すのが、両親より遥かに早かった。鋏《はさみ》を一つ、ぱちっと入れると、殆ど、あとは鋏なしで、解いて行く。古着だから、糸が弱っていて、ぶつぶつ切れるが、それを切らずに解くのが技巧で、自分ではおもしろくて、解き物は一手で、引き受けるようになった。
 この時分、もう一つ上達したのは、飯焚きと、菜をつくることで――これは、後日になって、私の妻が、貧乏の最中、子供を産んで、寝ている時、私が、幾日か、飯菜を作って、その料理の種類の豊富さと味のよさとに、びっくりさせたものである。沢庵漬から――貧乏ぐらしの惣菜一通りは心得ている。ことごとく幾年か手伝った御蔭である。

    十二

 高等小学へ行くようになってから、教科書以外の本を買ってもらえるようになった。それも、一冊一月がかりで、だましたり、悲観したり、母から半分もらって、残りをねだったり、相当苦心を必要とした。
 その時分、私の家へ一人の食客がくる事になった。松原貴速という人である。その人の為に、物置になっている二階へ、南向きの窓を開けて、畳を敷くことになった。
 この松原貴速という人は、長州の俗論党の錚々《そうそう》たる人であったらしく、旧姓山県九郎右衛門という(この人について、御存じの方は御一報願いたい)、後に、石清水八幡の宮司となり、生玉神社にも仕えたが、遂に、浪々の身となって、何ういうのか、父が世話することになったのである。
 当時、父の、一番崇奉していた人は、大和の代議士桜井某で、この人が、時々来ては
「えらい人や、世話しとき」
 と、云われて、うれしがっていた。二年か、三年も居られたであろうか。中学へ
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