。この私のクラスは、谷崎、広津、三上、宇野などの二年下で、里芋に拡声器をつけたような木村|毅《き》。笑画の小間物屋番頭忠八みたいな宮島新三郎、その外、田中純、西条八十、村山至大、青野季吉、保高徳蔵、細田源吉、細田民樹。
このクラスだけで、評論、プロ文学、詩、童話、純文学、大衆文学と、田舎のデパート位に揃っている。
しかし、これは、ずっと後の話で、在学中に、一番花々しかったものは、立石美和の一派で、角帯に、時として前掛けをしめたりしていたが、細田源吉が、苑雪次郎と称して、このグループの雑誌「美の廃墟」に小説をかいていた。沢田正二郎が、わざわざ頸筋に、白粉を残して、得意そうに校内を歩いていたのもこの頃で、頽廃的なものが、主流となっていた。宮戸座に、源之助、工左衛門などを讃美しに行ったのも、当時の流行の一つであった。
「いやな奴だな」
「うん」
青野と、私とは、時々こう云いはっていたが、彼等には、江戸っ子が多く、喋るのが巧みで、どもりの青野や、無口の私は、羨んでいるより外に仕方がなかった。
二人の細田が、娘と、その母とに、二人とも関係したとか、せぬとかいう噂が立ったりした。民樹の「泥濘の道」というこの事をかいたという小説が「早稲田文学」に発表されたが、与謝野晶子が
「こんな事、本当にあるんでしょうか」
と、その四角関係に、呆れた事があった。自然主義末期の影響で、こうした生活を、深刻とか、何んとか考えていたのであろう。
二十七
貧乏人には、貧乏人特有の痩我慢みたいなものがある。人からあいつ貧乏人だと云われたくない、というような、例えば、一円の値の物をやると、矢張り一円の品を返してくると云ったような――一種のひがみである。
私の在学中、私のクラスメートは、恐らく、私の貧乏を知らなかったであろう。それは、その後五六年もして私が原稿をかき出して
「おれは、実は貧乏だ」
と、云っても、信用しないばかりか
「直木の奴、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]吐いてやがる」
と云ったりした人のあるので、明らかであるが、これは、私の家が、古着屋であると云う事を知らない為であったのだろう。家の商売が、商売だし、父が
(せめて、着物位は人並にしてやらんと)
と、云ってくれると、私も若い燕であるし、相当にいい着物を着ていた。
恐らく、クラスの中で、私
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