い物なら、何んでも買うのである。父は、着物の外に、金物や、道具の類は、少しも判らないが、それでは、商売にならないから、わかったような顔をしていた。そして、鉄瓶《てつびん》を買ってきたり、箪笥《たんす》を買ってきたりしたが、それを値踏みするのは、いつも、近所の、岡本という古着屋の人であった。
「宗一、岡本はん走って、行って、これ何んぼや聞いといで」
 と、売りに来た客へ
「すぐ、持って行きまっさ」
 というような事を云って、帰しては、私が走って、値を聞いた。そういう物が、少し嵩張《かさば》ると、父は
「宗一、手伝うて」
 と、云って、私に半分、背負わせて、持って行ったり、持って戻ったりした。
 電車の出来たのは、それより、ずっと、後であるから、大阪中、何処でも、歩いて行くのである。父は、今年八十三歳で、未だ元気であるから、少々のことは、平気であるが、私は、弱かったから、古着の三十枚も、首へ巻きつけ、肩へのせて、天王寺や、玉造や、淡路町――時として、住吉の近くの勝間辺まで、往復するのは、可成りつらかった。
「若い間に、苦労しとかんと、えろなられへん。わいら、天保銭三枚もって、大阪へきて、こないなったんや」
 父は、大抵同じ事を云った。この小僧代理は、思春期に入ると共に、甚だ不愉快なものになった。しかも、真向うに、惚れた女が出来、古着屋という商売が、余り上等でないとわかってきてからは
「宗一、浜はんへ行って、買うたんのとっといで」
 と、云われるのが、何より嫌であった。然し、これは、すぐ間もなく、中学へ入ったので
「勉強の邪魔になる」
 と、いう口実を造って、逃げてしまった。

    八

 この尋常小学在学中に、私を可愛がってくれた人がある。相当、父は長く、同町にいるので、町内の人とよく交際していた。その中で、売薬屋をしている楠という家に、一人の婆さんがあった。
 この婆さんの娘が「渋川」という特務曹長の妻になっていたが、軍人の事|故《ゆえ》、時々、転任するので、その間淋しいらしく、男の子は「二宗商店」という、例の「照葉」に指を切らした放蕩《ほうとう》息子を生んだ大阪屈指のべっ甲問屋へ奉公へ出ていていないし、それで、私が行くと、いろいろと、もてなしてくれた。家で、間食の味は、殆ど知らなかったが、ここでは、いつも、菓子をもらった。
 この渋川特務曹長が、時々、戻ってくる
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