といかんがな」
 と、叱るようになってきた。それから、子守。この子守は、母と二人で、大抵母が守をしてくれるが、夕方、骨屋町へ買物に行く時には、帰りに持ち物が増えるので、必ず私が母について行く事になった。
 骨屋町とは、南北に通っている町で、俗称であるが、それは、和泉町から本町へかけて、丁度、今の公設市場のように、一切の食料品店が、その辺に集っていた。
 これは、大阪が、一番よく発達していたのではないかと思っているが、私達の住んでいた上町――坂の上の方にある町、高い所の方の町の意、東横堀川より以東を総称す――は、船場、島の内より見て、貧乏人階級であったから、自然に、そういう風なものが、利用されたらしく、少し経ってから、空堀の方、玉造の方にも、そういう市場の集団が出来た。これは、横堀以西に余りないのであった。
 八百屋、魚屋の類が、凡そ、二三町の間に、連なっていたが、ここで物を買うと、近所の同じ商人で買うより安いから、子供を背負うて買出しに行くのである。母が、葱《ねぎ》と、大根との風呂敷包をもって、私が、弟を負うたり、その反対だったり――それから、それが、だんだん慣れてくると、私が一人で買出しに行ったり、弟を背負うて、母を連れずに行ったり――思春期前の少年だから、平気で
「この頭おくれ」
 と、出汁にする鰻の頭を一皿買ったり、牛肉屋が顔馴染になったので
「味噌まけといてや」
 と味噌を、余分に入れさせたり――そして、多分、私が弟を背負って、そうして、大抵毎日買って歩いているのが商人達に、記憶されたらしく、それから又、憐れまれたらしく――私等兄弟より外に十歳位で、そんな所へ、惣菜《そうざい》を買いに行く奴はいなかったらしく
「まけといたるで」
 と、鰻屋が、八幡巻《やわたまき》を一本添えてくれた事があるし、牛肉屋が
「葱もおまけや」
 と、添え物の葱を一つかみくれた事もあった。そして、そういう日は、私は得意で
「まけてくれよった」
 と、自慢した。この惣菜買いは、それから後中学へ行っても続いていた。
 所が、困った事に、鰻の頭や、葱のしっぽだけでは、大して手助けにならぬし、小僧を置くような資力はなく、私が、惣菜買いの上手を見込まれて、今度は、父と共に、古着の包を背負って、歩かなければならなくなった。
 鑑札が、正面の柱にかかっていたが、それには「古物商」と書いてあった。古
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