も、私の間食になった。後になると、私自身が、それを造って食べていた。
 家へ戻ると、中々、出してくれないし、玩具も、何も無いから、私は、チョークを買ってもらって、それで、押入の板戸へ、絵や、字を書き出した。小さい家で、大阪流に、中の間は、薄暗いが、その中で、夜になるまで、書いては消し、消しては書きして、板戸の下から、三尺位の上下は、白墨の白さが、しみ込んでしまっていた。
 それから、間なしに、店と、中の間の間に、一尺四方位の硝子《ガラス》が、一間余り入ったので、嬉しくて堪らず、そこを又手習台にして、主として、絵を描いた。
 時々、近所からの貰い物などがあるが、そういう物は、自分の生活とは、ちがった物のような気がして、例えば、菓子を食べても、それが無くなると、欲しいという感じは、絶対にしなかった。食べられないのが、本当で、食べるのは間違っているように、感じていた。
 生れた時から、こうして育つと、貧乏を少しも、貧乏とは感じないものである。これが、誰でもの生活だ、というように――子供であるから、簡単に――たまたま友人の、広い家へ行っても、何の感じもなく、羨望も何も、起らなかった。
 内安堂寺町の上の方に、尼寺があって、そこに、国宝の観世音が祭られているが、その縁日が、八の日に立つ。立つと、玉造から、丁度、私の家の辺まで、七八町――大阪で有名な夜店である。
 いつ頃か、一人で行くようになった時に、小遣銭として、二銭母がくれた。これが、小遣をもらった最初であるが、二銭を握って、三度位、七八町の間を往復したであろうか? そして、とうとう何も買わずに戻ってきた事があった。
 この中で、本だけは、よく買ってくれた。その時分、道頓堀筋、日本橋東へ入る南側に、絵本屋があったが、そこへ行って、絵本を買うのが、唯一の楽しみで、当時一冊、三銭位であったであろうか、彩色した袋の中に入っていて、中は、馬糞紙の粗末なものであったが、それだけが、私の買ってもらった唯一のものである。

    七

 私が生れてから十年目に、弟が生れた。父が
「清二が生れよったさかい、いつまでも御前遊んでたら、何んならん、少し、うちの事手伝い」
 と、ランプの掃除が、その第一の仕事になった。これは、前々から、私がやっていたらしいが、洋燈の掃除について、一寸も叱った事の無かった父が
「こら、汚い、もっと丁寧に掃除せん
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