いると「尻を斬らして捕え」もするし「腰を撲らして」強敵を倒しもするのである。「間」はただ剣と剣とを交えている時の「隙」だけでは無い、あらゆる突発的出来事に面した時の刹那の「間」であって、これにちゃんと処して誤らないのは「出来た腹」のみである。そうしてこの腹は剣からも入る事が出来るし禅からも入る事ができる。多くの剣客が禅に篤《あつ》く所謂《いわゆる》剣禅一致の妙などと云う言葉をも喜んだものである。勿論文芸からでもいいし、女買いからでも入れるし、絵からでもいい。武蔵が絵画も剣も究極は一であると云ったがこの意味である。
 又右衛門の師、柳生|但馬守《たじまのかみ》宗矩《むねのり》などはこの点に於てその妙境に到達している人である。禅でも心の無を重んじるが剣も心を虚《むなし》くする事を大切としている。無刀流とか無念流とか無想剣とか無を大事にした事は多い。
「打太刀にも、程にも、拍子にも、心を留むれば手前の働き皆脱け候《そうらい》て、人に斬られ可申《もうすべく》候。敵に心を置けぱ敵に心をとられ、我身に心を置けば我身に心をとられ候――是《これ》皆心の留まりて手前の脱け申により可申候」
 と沢庵《たく
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