早大の佐野学が某所に匿《ひっこ》んでいるんだなどと噂やら事実やらとにかく東京で有力な人の袖に縋《すが》れば、安全な事今も昔も大した変りはない。荒木は又五郎の動静を主として甚左衛門の一止一動によって知ろうとした。甚左衛門も寛永の武士気質をもっている立派な男である。又五郎へ義理立てて浪人してからは又五郎の居る所に必ず附いて行く事にしている。又右衛門は甚左衛門と同家中だから敵の顔を知らぬ上に於て、甚左の意地張《いじば》って又五郎の前に立っているのを利用するにかぎる。甚左衛門はそうと知っているがそれを避けて匿れる程の策も持たない。意地一本、真正直に又右衛門に逢えぱ討取るつもりでいる。
三
又右衛門は甚左衛門が奈良へ帰った事を知った。探偵してみるとどうやら又五郎も一緒らしい。機会としては絶好の時である。然し当時奈良の町奉行は中坊飛騨守秀政《ちゅうぼうひだのかみひでまさ》といって旗本の関係者であった。もし濫《みだ》りに斬込んで、奉行の手で邪魔が入ったり、討ったとしても後で不利益だったりしてもつまらぬし、町家では町人百姓が騒立ててどんな事が起らぬにも限らぬからそのまま様子を見ている事とした。寛永十一年十一月五日の事である、諸説あるが、馬子の口から洩れたというのが本当だろう。又五郎から馬三頭を六日の夜明けぬうちに廻せという註文がきたというのである。待っていた機会がいよいよ来た訳である。見張を出して川合方の様子を見せると、立ちそうだという。四人は支度を整えて一行の跡をつける事にした。鎖帷子《くさりかたびら》と鎖入鉢巻の用意をして、七八町のあとから見えがくれに後を追って行く。
武士の意地で殺し、意地から匿《かくま》い、意地で来た助太刀である。いつでも対手になってやるという覚悟で、勿論鎖帷子、白昼堂々と槍を立てて又五郎は行く。三人に槍三本、鉄砲一挺、半弓一張とちゃんと格式を守って大手を振っているのである。若党、小姓、足軽、人足合せて二十人、奈良|般若寺《はんにゃじ》口から坂道を登り木津から、笠置を経て、笠置街道を進む。六日の午後の二時に島ヶ原へ入った。日足の早い冬、次の駅まで行くのは危険である。敵をもつ身はただの旅人にも増して早立ち早泊りが必要である。それで松屋という宿へ泊る事となった。それを見届けて、松屋より二三町先の方、馬借《ましゃく》勘兵衛《かんべえ》の家《うち》へ頼んで、又右衛門は見張る事にした。松屋の近くの宿では泊れぬから、仕方無しに馬問屋へ頼んで、腰をおろしたのである。七日の明け切れぬ中に荒木はここを立った。これから先は、道を選んで場所をこしらえるだけである。隠れているのによくて敵の逃道の無いそして味方に足がかりのいい所を選ばなくてはならぬ。探《たず》ね探ねしながら長田川の橋を渡って五町、上野の城下小田町の三ツ辻まできた。上野は藤堂家の領地で、此処には数馬の知人もいる。三ツ辻、俗に鍵屋の辻ともいうが突当りが石垣で、右角の茶店が万屋《よろずや》喜右衛門、右へ曲ると塔世坂《とうせざか》という坂があって町へ入る。左角が鍵屋三右衛門、角を折れると北谷口から城の裏へ出る事が出来る。
「此処がいい。左右に分れて隠れる事が出来るし、先が曲ってしまえば、後の出来事は判らない。ここで逃路を切取って二人が前から懸れぱ袋の鼠に出来る。武右衛門と孫右衛門は鍵屋の角で隠れて敵の逃げるを斬るがいい。もし先立って甚左か半兵衛が来たなら二人でかかれ。私は最後の奴を斬捨てて下人共を追散そう。数馬はただ又五郎一人にかかって余人に振向くな、余人は又右衛門が必ず一人で食止めるから。それからくれぐれも云っておくが、もし半兵衛が先に来たら武右衛門、決して槍をとらすな。半兵衛を斬るか槍持を斬るかとにかく槍を執らさぬ手段をするがいい。斬込む合図は私が後の奴を斬ると同時だ。三人一度に目指す者にかかれ」
こういう指図であったらしい。十一月七日の早朝だから寒空である。又五郎の一行を待つ為めに四人は万屋へ入った。街道筋の商人《あきゅうど》はこの寒さにも五時から店を開けている。
「亭主寒いナ」
と云って入った。この四人、そろって上方者だから写実で行くと、
「おっさん、えらい寒いこっちゃナア」
と云ったかも知れぬが、とにかくこの茶店へこういう事を云ったと伝えられている。
「親父、じろじろと見るナ。怪しくみえるかの。武士《さむらい》と云うものは敷居を跨ぐと敵のあるものでのう。鎖帷子、ほうら鎖頭巾、どうじゃ、こうちゃんとした扮《なり》をするといい男だろうがの、今に喧嘩でもしてみろ、三人や五人ならおくれはとらぬぞ。時に亭主もっと燗を熱くしてくれ」
又右衛門は濁酒《どぶろく》の燗を熱く熱くと幾度も云ったそうである。茶屋の親仁《おやじ》だから燗の事だけは確かに明瞭《はっきり》と覚
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