あん》禅師の「不動智」にあるが、無念無想の境にあって敵に応じて無より出、無限に働くのを極意としている。平たくいうと、敵の眼に心を留めると、太刀の方が留守になるし、太刀のみに気を入れていると、脚の構えが抜けるし、一人に心を留めると、背後《うしろ》へ廻った敵に困るし前後へ気を配れば左右が粗になる。というように到底心を何物にかに留めては、留切れないから、こっちが「無」になってしまって対手を見ない事にするのである。そして敵から与える「間」にこっちが働いて行くのである。「無」になる為めには勿論生死を出ていなくてはならぬ。何時《いつ》でも死んでもいい腹は一番に結《くく》っておかねばならぬ物である。武蔵に見出された時の都甲太兵衛が、細川公の前で武蔵から、
「平常《へいそ》の覚悟は」
と聞かれて、
「いつも死の座に居るつもりしていたが、近頃その死という事も忘れた。何も云う事も無いが、そう聞かれると、こうでも返事するより外に覚悟は無い」
と答えると、武蔵が、
「これが剣の極意と云うもの」
と云った話がある。宗矩の高弟である又右衛門も多少この辺の事は心得ていたらしい。腰の一件も、強敵桜井半兵衛を斬倒していた時だから、
「腰ならいい」
と撲らしておいたとも云える。少くもその腰を撲った小者を、刀で払いはしたが斬らなかった所を見ると対手にせなかったものらしい。
「危い危い、傷《けが》しちゃいけないから退《の》け退け」
位《ぐらい》は云ったかも知れぬ。――と、尤《もっと》もこれは又右衛門を贔屓《ひいき》にしての説明で、本当は油断の隙を撲られたのかも知れない。
二
「主人、朋友の敵《かたき》は其義《そのぎ》の浅深に可依也《よるべきなり》、我子|並《ならび》に弟の敵者不討也《かたきはうたざるなり》」
と「勇士常心記」に出ている。弟源太夫の敵として又五郎を討つと云う事は当時の武士の常識から云って出来ない事である。それを荒木又右衛門までが助太刀に出て、天下の評判を高めたのは、弟の敵以外に「上意討」の如くなっていたからである。又五郎を旗本の安藤四郎右衛門――講釈の阿部四郎五郎――が隠匿して池田公に喧嘩を吹掛け、
此度《このたび》は備前《びぜん》摺鉢《すりばち》底抜けて、池田宰相味噌をつけたり
と云うような落首まで立つ位になったから意地として池田|忠雄公《ただたけこう》は又五郎を討たずにおれなかった。それで手強く幕府へ懸合っで老中共も持余《もてあま》している時、毒殺だと噂された位急に死んでしまったのである。死際《しにぎわ》に、
「旗本の面々と確執を結び、不覚の名を穢《けが》し、今に落着|相極《あいきわま》らず死せん事こそ口惜しけれ、依て残す一言あり、我れ果《はて》ても仏事追善の営み無用たるべし、川合又五郎が首を手向《たむ》けよ、左なきに於ては冥途黄泉の下に於ても鬱憤止む事無く」
と遺言した位だったから、数馬の決心も固くならなくてはならぬし弟の敵であると共に主君の命によって討つ所謂《いわゆる》「上意討」も含まれてきたのである。
寛永九年三月、
「川合又五郎と申す者は一夜の宿を貸し候とも二夜と留置き候者は屹度《きっと》曲事《くせごと》に行わるべき者也」
という御触れが出て又五郎は江戸に居られなくなった。これは一方の池田公が暴死したから、旗本を押える為めの御触れである。こうなれば四郎右衛門も匿まっておけない。江戸を出るとすれば池田家の誰が討たんにも限らぬし、郡山《こおりやま》名代の剣客、数馬の姉|聟《むこ》である荒木又右衛門が助太刀に出ているというから又五郎は危い。寛永の頃の武士気質《さむらいかたぎ》は未だ未だ大したものであった。荒木と同家中であって又五郎の叔父に当る川合甚左衛門が浪人して又五郎の為めに助太刀にくるし、又五郎の妹聟桜井半兵衛も、
「見ず知らずの旗本さえあれだけの事をしてくれるに縁につながる自分が出ぬ法は無い」
と戸田左門|氏鉄《うじかね》の家中で二百石を領していた知行を捨てて加わって来た。この桜井半兵衛は十文字槍の達人で、霞構《かすみがま》えと来たら向う所敵無しと称されていた者である。家中では霞の半兵衛という綽名《あだな》の出来《でき》ている位槍をもたしては名誉の武士であった。又右衛門が鍵屋の辻で、
「半兵衛に決して槍をとらすな」
とその為めに孫右衛門、武右衛門の二人にかからせたのでも判る。
又五郎は一二カ所に匿れ忍んで居たが面白くなかったり主人に死なれたりして結局又江戸へ戻ったらという事になった。江戸御構いというものの黙って入ってこっそり隠れて居れば旗本の同情があるから判りっこはない。田舎で目に立ってびくびくしているよりもその方が利口である。頭山満《とうやまみつる》の邸へ逃込んだ印度人がとうとう判らなくなったり、
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