えていたにちがいない。酒を傾けながら孫右衛門は時々店先へ出て、又五郎らの来るのを見る。長田川の橋からは一本道で橋上にかかれば茶店からは一眼である。敵がそこへ現れたという合図は孫右衛門が小唄を唄う事にしてある。
「いい心持になった、亭主、この羽織をお前にくれてやろう」
「旦那様、めっそうもない……」
「ま、取っておけ、少し長いぞ」
 と云ったが又右衛門の身丈《みのたけ》六尺二寸と云うのだからぞろりと着れば踵まであったかも知れない。
「亭主、わしのもくれようか」
 と云って数馬も羽織をぬいだ。これは池田家第一の美男子と称された源太夫の兄である。遺伝学から云うと兄より弟の方がいい男が多いそうだが、その代り兄は甚六で多少ゆったりしているから矢張り数馬もいい男であったにちがいない。緋羽二重《ひはぶたえ》の下着に黒羽二重の紋付という扮装《いでたち》など、如何にも色男らしいこしらえである。
 寛永時代の小唄だから頗《すこぶ》る悠長な、間のびのした半謡曲染みたものであろう。酒も大してのまないのに、孫右衛門店先でゆらゆら唄出した。
 襷《たすき》に、鉢巻、足許を調べて、
「亭主、勘定」
 武右衛門と孫右衛門は左角の鍵屋の軒へ忍んで北谷口で逸する敵の退路《にげみち》を切取ると共に先頭《さき》に立つ一人を斬る。荒木、渡辺の二人は万屋の小影に身をひそめて又五郎と附人に当る。

     四

 寛永十一年十一月七日、辰の刻、今の朝八時である。此時荒木が又万屋へ戻ろうとするから、
「何故《なぜ》?」
 と聞くと、
「イヤ、一文多く渡したのだが、平常《いつも》なら何でも無いが、こういう場合だから、又右衛門め周章《あわ》てたなと思われるのが残念だから、一寸《ちょっと》行って取戻してくる」
 と云ったという話があるが、これは嘘らしい。 
 長田川の橋に現れた一行、真先に立って周囲《あたり》を見廻しつつ馬上でくるのは又五郎の妹聟で大阪の町人虎屋九左衛門、半町も先に立って物見の役とある。つづいて美濃の国戸田家の浪人、桜井半兵衛とって二十四歳の若者、使慣れたる十文字の槍を小者三助に立てさせ馬側に気に入りの小姓|湊江清左衛門《みなとえせいざえもん》を引つけ、半弓をもった勘七、同じく差替をもった市蔵を後にしたがえて、天晴なる骨柄寛永武士気質を眉宇《びう》に漲らせている。又五郎同じく二十四歳、小者一人、喜蔵というに十文字の槍をもたせ後ろを押える人として叔父の川合甚左衛門、四十三という男盛り、若党与作に素槍を担《かつ》がせ、同じく熊蔵を従えた主従十一人鎖帷子厳重に、馬子人足と共に二十人の一群、一文字の道を上野の城下へ乗入れてくる。
 荒木又右衛門保和、時に三十七、来《らい》伊賀守《いがのかみ》金道《きんみち》、厚重《あつがさね》の一刀、※[#「※」は「金+祖」「祖」のしめすへんは「ネ」」ではなく「示」、第3水準1−93−34、48−5]元《はばきもと》で一寸長さ二尺七寸という強刀、斬られても撲られても、助かりっこのない代物である。虎屋九左衛門の馬は遥かに過ぎ、鍵屋の前を桜井の馬が曲り、押えの甚左衛門が、今万屋の軒先へさしかかった時、
「甚左衛門ッ」
 大音声の終らぬうち大きく一足踏出した又右衛門の来金道、閃くと共に右脚を斬落としてしまった。馬から落ちる隙も刀を抜くひまも無い。タタと刻足《きざみあし》に諸共《もろとも》今打下した刀をひらりと返すが早いか下から斬上げて肩口へ打込んだ。眼にも留らぬ早業である。川合甚左衛門、自慢の同田貫《どうたぬき》へ手をかけたが抜きも得ないで斃《たお》されてしまった。一口に刀を返してというが中々尋常の腕でこの返しが利くものでない、「翻燕《ほんえん》の刀」と称して、真向へ打を入れて、受けんとする刹那、転じて胴へ返すのが本手で、これはいろいろに使うのである。打込んで行く勢を途中で止めるのが練磨の腕前だが敵もさる者、それを見破ってその「間《かん》」に逆撃されると負になる。あくまで真向《まっこう》微塵《みじん》とみせて、ヒラリと返すのだから一流に達した腕でないと出来ない芸当である。初太刀は大抵受けられるが、後の先といってすぐの斬返しにまで備えるのは余程の腕が要る。片脚を落された刹那刀を抜いて次の斬込みに備える隙位は普通の相手なら有る所だが、名代の荒木又右衛門、斬下すと共に返してきたから、隙も何も有ったものでない。二太刀で物の美事にやられてしまった。甚左衛門を倒すと共に、周章《あわ》て立つ小者共に、
「邪魔すなッ」
 と大喝したから、思わず逃出す。
「数馬、助太刀はせぬぞッ」
 と云い捨てて、二人きりの勝負とし、小者共を追いながら鍵屋の角から桜井半兵衛へかかって行った。
 この早業は到底数馬には出来ない。荒木と共に走出したが、又五郎も期していた所である。
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