見えざる人
THE INVISIBLE MAN
チェスタートン Chesterton
直木三十五訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)町《まち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)菓子|店《みせ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)アンガス[#「アンガス」は底本では「カンガス」]
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        一

 ロンドン・キャムデン町《まち》なる二つの急な街の侘しい黄昏の中に、角にある菓子屋の店は葉巻の端のように明るかった。あるいはまた花火の尻のように、と言う方がふさわしいかもしれない。なぜなら、その光は多くの鏡に反射して、金色やはなやかな色に彩どられたお菓子の上におどっていた。この火の様な硝子に向って多くの浮浪少年等の鼻が釘づけにされるのであった。あらゆるチョコレートはチョコレートそれ自身よりも結構な赤や金色や緑色の色紙に包まれていた。そして飾窓の大きな白い婚礼菓子は見る人に何となく縁の遠いようにも見えまた自分に満足を与えるようにも見えた。ちょうど北極はすべて喰《た》べるにいいように。こうした虹のような刺戟物に十一二歳くらいまでの近所の小供を集めるのは当然であった。しかしこの街角はまた年を取った若者にとっても魅力があるのであった。さてもう二十四にもあろうという一人の青年がその店の窓をのぞきこんでいた。彼にも、また、この店はもえるような魅力であった。しかしこの引力はチョコレートのみでは説明されるわけではなかった。と言って彼はチョコレートを軽蔑しているわけではなかったが。
 彼は丈の高い、肥った赤毛の青年で、しっかりした顔をしているが、物事に無頓着らしい様子をしていた。彼は腕に黒と白のスケッチ用の平たい灰色の紙挟みを抱えていた、そのスケッチは、彼が経済論に対して反対説を試みたために、彼の叔父(海軍大将)から社会主義者と見做されて廃嫡せられて以来、多少の成功を持って出版業者に売りつけていたのであった。彼の名はジョン・ターンバロ・アンガス[#「アンガス」は底本では「カンガス」]といった。
 遂に彼は菓子|店《みせ》の中へはいって行ったが、そこを通り抜けて、喫茶店になっている奥の室《しつ》に通った。そしてそこに働いている若い女にちょっと帽子をとった。彼女は黒い着物を身につけ、高い襟をつけた、優雅な女で非常にすばしこい、黒い眼を持っていた。彼女は註文をきくために奥の室《しつ》へと彼についてきた。
 彼の註文はいつも決まっていた。半|片《きれ》の菓子パンとコーヒーを貰いたいと彼は几帳面に言った。その女があちらへひきかえそうとすると彼はこう言い足した、「それからね、僕は君に結婚してもらいたいんだが」
 そこの若い給仕女は急にかたくなって、「まあそんな御冗談をおっしゃってはいけませんワ」と言った。
 紅髪《こうはつ》の青年は灰色の眼をあげて重いもよらぬまじめな眼光《まなざし》をした。
「全く本当に」と彼が言った。「これは重大なんだ。半片の菓子パンの様に重大なんですよ。菓子パンのように金子《きんす》もかかるし、不消化だし、それに損害を与えるしね」
 若い女は黒い眼を男からはなさずに、しかし彼を一生懸命に鑑察してるように見えた。がやがて微笑《びしょう》の影のようなものが彼女の顔にうかんだ、そして彼女は椅子に腰を下ろした。「ねえ、君はこう考えないかね」アンガスは女のなんにも気にとめないような風をしてこう云った。
「こんな半片の菓子パンを食うなんてちと残酷じゃないだろうかね?これはふくれさせて一|片《きれ》パンにしたらいいね。僕達が結婚したら、こんな残酷な遊戯は、僕はやめてしまうね」
 かなし気な若い女は椅子をはなれて、窓の方へ歩いた。決然と、しかしまん更思いやりのなさそうにもなく。遂に彼女が決心をした様子でまた男の方へ転廻して行った時に青年は店の飾窓から、色々の菓子を取って来て、テーブルの上に叮嚀《ていねい》にならべているのを見て女はおどろいた。三角塔形をした色彩の強烈な糖菓、サンドウィッチが五六|片《へん》、それから菓子店に特有な神秘的なボルド酒とシェリ酒の瓶が二本。それからこのきれいな配列の真中に彼は飾窓の巨大な飾物であった白砂糖菓子の大きなかたまりを置いていた。
「あなたはまあ何をなさるの?」と女は云った。
「これはぜひいるものさローラさん」と彼は始めた。
「ああおねがいですから待ってちょうだい、そしてそんな事を云うのはよしてね、一体これはどうしたの?」
「儀式の献立さ、ホープ嬢」
「それじゃあれは何んですの?」彼女はじれったそうに砂糖菓子の山を指さしながら訊ねた。
「婚礼菓子さ、アンガス夫人」と彼は云った。
 若い女はその菓子の方へ進んで、少しガタガタいわせてそれを
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