里です」
「ここから、甲府までも、そんなものか?」
「ここからは十七里です」
「十七里か?」
近藤は、土方に
「急げば、間に合おう。敵に入られてはならぬ。土方、急ごう」
土方は、侍に
「敵兵の人勢《じんぜい》は?」
「五千とも、七千とも申します」
土方は、近藤をみて
「菜葉隊がつづかぬから、大砲の打ち方さえ判らない上に鉄砲がこの数では、とても、太刀打できんでないか」
「又、君は、鉄砲の事をいう――急げ、とにかく、急ごう」
早馬が去ると、一行は、八王子へ急いだ。そして、八王子の有志が、出迎えていた。
「無闇に、進んだとて仕方が無い。後続部隊も来ないのに――それに、四里も差があっては――」
と、その休息の時に、意見が出たし、第一日が暮れかかってこの雪道の笹子《ささご》峠を越せるもので無かった。それで、八王子へ泊った。酒と、女とが、府中と同じように出てきた。千人同心が、三四百人は、加勢するという話であった。
「勝沼で食止めて、一泡吹かしてから、甲府へ追込む事にしよう。それまでには、加勢も加わろう。今夜にも、菜葉隊は、くるかもしれぬ」
人々は、酒を飲むと、そういう風に考えた。金千代と、竜作とは昨夜の如く、流行唄を唄っていた。
五
次の日は大月で泊った。四日に、笹子の険を越えたが、眼下に展開しているのは、甲府盆地である。最初の村が、駒飼《こまし》で、ここから甲府へ六里、日が暮れてしまった。村人に聞くと、敵は、昨日甲府へ入ったと云った。
泥の半乾きになった道を、近藤と、土方とが、結城兵二三を連れて、防禦《ぼうぎょ》陣地の選定に廻った。そして、柏尾《かしお》にいい所を見つけた。其処は、敵の来襲を一目に見下ろせて、味方が隠れるのに都合のいい所であった。
その夜中から村人を狩集めて、隊士が手伝って、村外れに小さい、歪《くぼ》んだ所をこしらえた。二三人が押したら、すぐ潰《つぶ》れそうな所であったが、甲陽鎮撫が、防禦陣地に関所の無いのは、格式にかかわるという風に考えていた。
「この所一つあれば、十人で千人の敵へ当たる事ができる。蛤御門の戦の時に、長州兵が、三尺の木戸一つに支えられて、小半時入れなかった」
近藤は、この関所で、太刀を振るって、敵を斬っている自分の姿を想像した、何う不利に考えても、自分が一人で、守っていても、敵に蹂躙《じゅうりん》されそうにもなかった。
風呂敷、米俵の類を集めて、土俵、土嚢《どのう》を造った。隊士も、百姓も、土を掘って米俵へつめては、篝火《かがりび》の燃えている下へ、いくつも積上げた。力のある者は、石を転がしたり、抱上げたりして、土俵の間へ石を置いた。そして二尺高い堡塁が、半町余りの所に、点々として、木と木の間へ出来上った。
金千代と、竜作とは、炊事方になって、村の中から、女、子供に差図して、兵糧を運ばせた。沢庵《たくあん》と、握飯が、すぐ冷えて人々は、昨日までの、女と、酒とを思出した。
夜半から、又、雪がちらちらしかけた。人々は、茣蓆《むしろ》を頭からかぶったり、近くの家の中へ入ったり、篝火を取巻いたりして、初めて経験する戦争の前夜を、不安と、興奮とで明かした。
六
山裾の小川沿いに、正面の街道から、田の畝《あぜ》づたいに、敵が近づいてきた。だん袋を履《は》いて、陣笠をかむり、兵児帯《へこおび》に、刀を差して、肩から白い包を背負った兵であった。
四五丁の所で、右へ走ったり、左右に展開したりして、横列になった。そして小走りに進み乍ら、銃を構えた。隊長が、何かいうと、折敷いて、銃を肩へつけた。近藤が
「馬鹿なっ」
と、呟いて微笑した。そして、側の兵に
「撃ってみろ」
と云った、兵は、すぐ射撃した。近藤は、飛出す弾丸を見ようとしていたが、ばあーんと、音が、木魂《こだま》しただけで弾丸の飛ぶ筋が見えなかった。
(慣れたら、見えるだろう)
と、思った。
「もう一発」
「隊長殿、ここからだと、遠すぎますよ」
「黙って打て」
勇は、白いものが、眼を掠《かす》めたように感じた。
(あれが、弾丸の道だ。研究して見えぬ事は無い)
と思った。
前面の野、林、道に、一斉に白煙が、濛々《もうもう》と立ち込めた瞬間、銃声が、山へ素晴らしく反響して、轟《とどろ》き渡った。と、同時に、ぶすっという音がして、土俵へ弾丸が当ったらしかった。近藤は、振向いて、何処へ当ったか見ようとしたが、判らなかった。びゅーん、と耳を掠めた。
白煙が、一杯に、低く這ったり、流れたりして、兵も、土地も林も判らなくなった。その煙の下から、敵が、又前進しかけた。土方が、大声で
「撃てっ」
と叫んだ。
「大砲っ」
「大砲、何してるかっ」
兵が、怒鳴った。後方の大砲方は、身体をかがめて、大砲を覗いたり、周章てて、砲口を上下させたりしていた。一人が、向鉢巻をして
「判った」
と、叫んで
「除《の》けっ、微塵《みじん》になるぞっ」
口火をつけた。兵は、耳の、があーンと鳴るのを感じた。空気が裂けたような音がした。その瞬間、すぐ前の木が、二つに折れて、白い骨を現したかと思うと、土煙が、土俵の前で、四五尺も立昇った。
味方の弾丸は、前方の煙の中へ落ちて、土煙を上げた。
(今に、破裂する)
と、兵も、近藤も、土方も、じっと凝視《みつ》めていた。だが、破裂しなかった。
「口火を切ってない」
一人が、周章てて、弾丸の口火をつけて、押込んだ。銃声と、砲声とが、入り乱れてきた。兵の後方で、土煙が噴出した。山鳴がして、兵の頭へ、雨のように降ってきた。七八人の兵が、堡塁の所へ、しゃがんでしまった。
四十挺の鉄砲方の外の人々は、槍と、刀とを構えて、堡塁から、顔だけ出していた。一人が堡塁へのしかかるように、身体を寄せて敵の前進を眺めていた。
(成る程、遠くまで届くものだな)
近藤は、立木の背後で、散兵線を作って、整然として、少しずつ前進してくる敵に、軽蔑と、感心とを混合して、眺めていた。
七
近藤は、刀へ手をかけて、弾丸の隙をねらっているように――実際、近藤は、びゅーんと、絶間なく飛んでくる弾丸に、激怒と、堪えきれぬうるささとを感じていた。一寸《ちょっと》した隙さえあったなら、その音の中の隙をくぐって、斬崩す事ができると考えていた。
「くそっ」
誰かが、こう叫ぶ声がすると、大きい身体と、白刃とが近藤の眼の隅に閃いた。
(やったな)
と、一足踏出した途端、その男は、刀を頭上に振上げたまま、よろめきよろめき二三歩進んだ。そして、地の凹《へこ》みに足をとられて、立木へ倒れかかって、やっと、左手で、木に縋《すが》って支えた。
(負傷したな)
と、近藤は思った。
(鈴田だ)
その男が、立木へ手をかけて俯《うつむ》いた横顔をみて思った。その途端鈴田の凭れている木の枝が、べきんと、裂《さ》き折れて、大きい枝が、鈴田の頭、すれすれにぶら下った。
「鈴田っ」
鈴田の脚元に、小さい土煙が立った。鈴田は、刀を杖に、よろめきつつ、二三歩引返すと、倒れてしまった。
敵の兵は、未だ一町余の下にいた。そして、立木の蔭、田の畔《あぜ》、百姓家の壁に隠れて、白い煙を、上げているだけであった。
近藤は、墨染で、肩を撃たれた事を思出した。小さい、あんな鼻糞のようなものが、一つ当ると、死ぬなど、考えられなかった。二十年、三十年と研究練磨してきた天然理心流の奥伝よりも鋭く人を倒す弾丸――小さい円い丸《たま》――それが、百姓兵の、芋侍にもたれて、三日、五日稽古すると、こうして、近藤が、この木の蔭にいても、何《ど》うする事も――手も足も出無いように――
(馬鹿らしい)
と、思ったが、同時に、恐怖に似たものと、絶望とを感じた。土方は、堡塁の所から、首だけ出して、何か叫んでいた。
「あっ、敵が、敵が――」
一人が叫んで、立上った。兵の首が、一斉に、その方を振向いた。山の側面に、ちらちら敵の白襷が見えて、ぽつぽつと、白煙が立ち、小さい音がした。近藤は前には立木があるが、後方に援護物が無いと思うと
「退却っ、あすこまで――」
と、叫んで、一番に走り出した。ぴゅーんと、音がすると、一寸首をすくめた。
八
「出たら、撃たれるったら」
金千代が竜作の頭を押えた。
「然し、誰も撃たれてやしない」
「そりゃ、引込んでいるからだ」
「近づかないで、戦争するなんて、戦争じゃない。薩長の奴らは、命が惜しいもんだから、なるべく、近寄らずに威嚇《おど》かそうとしている、彼等――」
と、云った時、昨夜、総がかりで作った関門に、煙が立って、炸裂した音が轟くと、門は傾いて、片方の柱が半分無くなっていた。人々は
「あっ」
と、叫んで、半分起上りかけた。初めて、大砲の恐ろしい威力を見、自分らが十人で、百人を支えうると感じた所が、眼に見えない力で、へし折られたのを見ると、すぐ次の瞬間、自分らの命も、もっともろく、消えるだろうと思った。
「退却」
という声が聞えた。
「退却、金千代っ」
竜作が立上った。
「退却?」
金千代が竜作の顔を見て、立上ろうとすると、近藤が走ってきた。
「退却ですか」
金千代が突立った。近藤が、頷いて金千代の顔をみると額から血が噴出して、たらたらと、頬から、唇へかかった。金千代は
「ああ――当った――やられた」
と、呟いて、眼を閉じた。竜作が
「やられた、弾丸《たま》に当った」
近藤は、自分の撃たれた時には、判らなかったが、すぐ眼の前で、他人の撃たれるのを見ると、すぐ
(準備を仕直して、もう一戦だ。このままでは戦えぬ)
と思った。口惜しさと、焦燥と、憤怒とで眼は輝いていたが
「土方っ、退却っ」
と、怒鳴って、手を振った。刀をさしているのが、馬鹿馬鹿しいようだった。二三十年無駄にしたような気になった。土方の方が俺より利口だと思った。
一寸振向くと、敵は、未だ、隠れたままで射撃していた。そして空に耳許に、頭上に、弾丸の唸りが響いていて、立木へ、土地へ、砂嚢へ、ぶすっぶすっと時々弾丸が当った。
(こんな物で、死ぬ?――そんな)
と、思って金千代を見ると、口を開けて、両手をだらりと、友人の膝の両側へ垂れていた。
「捨てておけ、馬鹿っ」
近藤は、弾丸に当って死んだ奴に、反感をもった。何うかしていやがると思った。
金千代は額から全身へ、灼《あつ》い細いものが突刺したと感じると、すぐ、半分意識が無くなった。その半分の意識で
(俺はとうとう弾丸という奴をくったな)
と思った。
(だが、斬られるよりは痛くない。暗い、暗い、――竜作、もっと大きい声で――暗くて、大地が下へ落ちて行く、もっと、しっかり俺の手を握りしめてくれ――咽喉が渇いた――竜作――黙っていないで何か云ってくれ。俺は死ぬらしい――)
竜作は立とうとして、すぐ腹這いになった。そして、誰も見ていないのが判ると、そのまま四つ這で、周章てて、凹地《くぼち》の所まで走った。
勇は、後方に繋いであった馬の所へ行って、手綱を解いていた。丁度その時、谷干城《たにかんじょう》と、片岡健吉とが、先頭に刀を振って、走出してきた所であった。二三人の味方が、その方へ走っていた。勇は行こうかとも思ったが、何んだか馬鹿らしかった。というよりも撃たれたような気がした。
(今夜考えてみよう。俺は三十余年、剣術を稽古した。その俺より、百姓の鉄砲の方が効能がある。これは考え無くてはならぬ事だ)
勇は馬に乗った。そして真先に退却すると同時に、甲陽鎮撫隊は総崩れになって、吾勝ちに山を走り登りかけた。
竜作は、躓《つまず》いたり、滑ったりしながら、なるべく街道へ一直線に到着しようと、手を、頬を、笹にいばらに傷つけつつ、掻《か》き上った。
(江戸へ逃げて行って――何うにかなるだろう。何うにも成らなかったら、鉄砲にうたれてやらあ、切腹するよりも楽《らく》らしい。金千代は、楽そうな顔をして、死んでいやがった。然し、妙な得物だ。もう、武士は駄目になった)
眼を上げると、近藤
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