なると、勝負といってもほんの一|分《ぶ》か二分早く剣が届くか届かぬかで決まるものである。囲碁にたとえると一目か二目の細局である。伊藤一刀斎とか柳生宗矩《やぎゅうむねのり》なども、
「勝負は五分か一寸の内にあり」
 と云っている。宗矩がある浪人と試合した時、どう見てもそれは相打としか見えなかった。浪人を抱えている大名も相打だというし、浪人も相打だという。宗矩笑って、
「真剣勝負に相打だなぞという事はない。本当の太刀打なら拙者の勝である」
 と云ったので、浪人大いに怒り、真剣勝負をしようという。宗矩拒んだが聞入れないから真剣で立迎うと、浪人は血煙立って倒されてしまった。宗矩悠々と、その大名の前へきて、
「御覧なされ、勝負と申すものはかくの如きもの。木刀なればこそ相打と見えますが、真剣ならば判りましょう」
 と脇腹の所を見せると、袷《あわせ》二枚を斬って肌繻袢が切れていなかったので、一座感じ入ったという話がある。
 小次郎と武蔵とのこの試合の時にも、武蔵の鉢巻が切れて落ちた位である。ほんの一瞬の差、というよりも得物の長短である。武蔵は小次郎が「物干竿」と名づけたる三尺二寸五分の愛刀で対してくるだろうと思っていた。そしてそれに対して武蔵の帯びていた太刀は伯耆安綱《ほうきやすつな》で三尺八分というものであった。この差一寸七分、これが勝負を決する基になる。小次郎の技倆と腕と殆《ほとん》ど伯仲とすれば、残る所はこの得物の長短のみであると武蔵は思った。
 削り上げた木刀が、四尺一寸八分、今その雛形が松井男爵家に伝わっているが実に細かい注意をしたものである。一刻余りして二度目の使がくる。
「程無く参る」
 と云って絹の袷を着て、腰に手拭をはさみ、その上に綿入の羽織をきて船頭一人を連れ小舟に棹《さおさ》して出ていった。船の中であぐらをかきながら紙を取出して紙撚《こより》を拵えて居たが出来上るとそれを襷として、羽織をすっぽり頭から冠って船中で又寝てしまった。敵の無い感じである。その腹に置いて小次郎は武蔵の対手でない。
 舟底が砂へすれると共に、羽織をとって起上り、大刀を舟に残して短刀だけに、揖を削り上げた木刀を携《たずさ》え浅瀬へ降立った。そして、右手に木刀を提げたまま、渚をざぶざぶ渉《わた》りつつ、腰の手拭を取って鉢巻をした。
 小次郎は辰の上刻少し前に、美々しく飾られた小舟で検使役人と共に向島で待っていた。渚から七八間離れた所に仕合の場をしつらえて、足軽小者を小半町も四方へ出して見物人を警《いまし》めている。佐々木小次郎は絹の着物の上に染革の袴、立付《たてつ》けに縫ったのをはき、猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織をつけて草鞋《わらじ》履きである。刀は三尺二寸五分、物干竿と名づけたる備前鍛冶長光《びぜんかじながみつ》の刀、武蔵が渚づたいに歩んでくるを見るとともに腰掛を離れて走出た。そして渚に近よって、
「武蔵殿、拙者は辰の上刻前に渡っているに、余りの遅参不届で御座らぬか」
 と声をかけた。武蔵それを聞いたか聞かぬか黙って口許に笑を浮べながら、矢張り渚の小波《さざなみ》を踏んで歩み近づく。
「武蔵、おくれたか」
 と、怒りの声と共に、刀を抜いて鞘を捨て右手に提げて武蔵を迎える。武蔵その時、ぴたりと歩みをとめて、にやにや笑いながら、
「小次郎、試合はその方の敗じや」
 と云った。小次郎怒りの面地《おももち》を現して近づくのを、
「勝つつもりなら鞘は捨てぬものぞ」
 と云って、小次郎を正面から笑って迎えた。小次郎と武蔵との距離が一間余りに近寄ると見る「間《かん》」。互の気合、小次郎はどっと倒れてしまうし、武蔵の鉢巻の手拭が切れて落ちた。
 伊藤一刀斎は云う。
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勝負の要は間也《かんなり》。我《われ》利せんと欲せば彼又利せんと欲す。我往かば彼|亦《また》来る。勝負の肝要|此《この》間にあり。故《ゆえ》に吾伝の間積りと云うは位《くらい》拍子に乗ずるを云う也。敵に向って其《その》間に一毛を|不[#レ]容《いれず》、其|危亡《きぼう》を顧《かえりみ》ず、速く乗て殺活し、当的よく本位を奪うて|可[#レ]至者也《いたるべきものなり》。若《も》し一心|間《かん》に止まるときは変を失す。我心《わがこころ》間に拘わらざる時は、間は明白にして其位《そのくらい》にあり。故に心に間を止めず間に心を止めずよく水月の本心と云う也。故に求むればこれ月に非ず、一心清静にして曇りなき時は万方皆これ月の如く|不[#レ]至《いたらず》と云う所なし。
古語に曰《いわ》く、|遠不[#レ]慮《とおくおもんぱからざれば》則《すなわち》必《かならず》|在[#二]近憂[#一]《ちかきうれいあり》と、故に間に遠近の差別なく其間を|不[#レ]守《まもらず》、其変を|不[#レ]待《またず
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