》人に致されずして疾《はや》く其位を取るは当の一的なり。もし夫《それ》血気に乗じて無落著《ぶおちつき》する者は我刃《わがやいば》を以て独り身を害するが如し。
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 一刀斎先生剣法書に一箇条「間」の説明である。武蔵と小次郎との試合を説明せんが為めに書いたと同様に上手に「間」の事を説いている。

         四

 倒れている小次郎の側へ近々と近寄って二度目の気合をかける「間」小次郎の備前長光、横に一薙《ひとなぎ》すると、武蔵の膝を掠《かす》めて垂れていた袷の裾三尺余り切れて落ちる。と共に小次郎の脇腹の骨が折れて、口と鼻とから鮮血が流れ出た。
 武蔵という人は身の丈六尺、力が強かった。ある人、差物竿にするから竹を選んでくれというと、武蔵竹を右手にとって、びゅっと振ると、竹が砕けてしまったというから凄いものである。この大力で打たれては小次郎も堪らない。
 武蔵は暫く小次郎の面《おもて》を凝視《みつ》めていたが、木刀を捨てて膝をつき、小次郎の口へ手を当てて呼吸を窺っていた。それから眼瞼《まぶた》を押開いてみて瞳を見た。手を離すと共に、遥かに控えている検使に一礼して木刀を拾取ると共に、静々渚へ行って船に飛乗った。そして船頭に楫を操《あやつ》らせつつ、自分が楫を入れて漕去った。自ら楫を入れたのを急いだと解く人があるが、磊落《らいらく》な武蔵の別にそういうつもりも無く、紙撚《こより》で襷にしたのと同じような心安さからであったのであろう。
 下の関へつくとすぐ一書を長岡佐渡に認《したた》めて使いを出し礼を述べて、筑前へ去った。
 武蔵は二刀一流の創始者であるが、一生の試合六十余度のうち一度も二刀を使っていない。「兵法三十五※[#「山+竒」、第3水準1−47−82]条」のうちに、
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此道《このみち》二刀として太刀を二つ持つ儀、左の手にさして心無し太刀を片手にて取ならわせん為なり、片手にて持得《もちえ》ば、軍陣、馬上、川沿、細道、石原、人込み、かけはしり、若《もし》左に武道具持たる時|不如意《ふにょい》に候えば片手にて取なり、太刀を取候事《とりそうろうこと》初め重く覚ゆれ共《ども》後は自由に成候《なりそうろう》。
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 とある。後世二天政名流、二刀二天流などの士は左右に刀を振った例は有るが、武蔵は片手にても双手に使うと同じように使わんが為めに左右へ執ったのである。
 同書の中に、
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期を知るという事は、早き期を知り、遅き期を知り、のがるる期を知り、のがれざる期を知る、一流直通という極意あり、此事《このこと》品々《しなじな》口伝《くでん》なり。
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 とあるが、伊藤一刀斎の「間」を云ったものである。事のついでに立廻りの心得二三を書いておくが立廻り役者の出鱈目な立廻りなど少々心得ておくといい。
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二つの足とは太刀一つ打つ内に足は二つ運ぶ物也。太刀乗はずし、つぐも退くも、足は二つの物也。足を継ぐと云う心|是也《これなり》。太刀一つに足一つずつ踏むは居付《いつき》きわまる也。二つと思わば常に歩む足也。
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 太刀一つに足一つずつ踏むは居付きわまる也とは、足が居附いて変化に不便という意味である。
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身のなり、顔はうつむかず、余り仰《あお》のかず、胸を出さずして腹を出し、腰をかがめず、膝を固めず、身を真向にしてはたばり広く見する物也。
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 武蔵と小次郎との此の試合に就ては、いろいろの批評があった。その一つは、
「止めを刺さなかった」
 と云う事である。これに対して武蔵は、
「小次郎も天晴な若者である。試合の勝負は遺恨の勝負でないから勝てばいい。もし止めをささずに生返ったらそれこそ嬉しい話ではないか」
 と云っている。当時の試合は素面素小手であるから、打ち所によっては不具や生命を取られる事は免れなかったのである。
「時刻を遅らせて小次郎を待ち疲れさせたのは卑怯な謀《はかりごと》である」
 と云う非難に対して武蔵は答えていない。私が武蔵に代って答えると、
「そもそも兵法とは、古人の云っているとおり、刀術を表とし兵略を裏としたもので、後に軍略と剣術とに別々になったのは、徳川以後の事である。武蔵の時代まで、兵法と剣術とは同一の物で、戦の駈引と試合の駈引と合一点から出ていた。大抵の試合に武蔵が敵を苛立たせる為め、やや遅れて行っているが、時としてこの裏を掻いて早くより待っていた事もある。吉岡一門と試合した時などこの方法を採っている。そして伊藤一刀斎なども、詭計をもって敵を計ると云う事を極意の一つにしているし、敵のこの謀《はかりごと》に己が心の乗らぬように常に戒《いま
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