寛永武道鑑
直木三十五
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)濫《みだ》りに
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(例)大事|故《ゆえ》、
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一
桜井半兵衛は、門弟に、稽古をつけながら
(何故、助太刀を、このわしが、しなくてはならぬのか?)
と、その理由を、考えていた。烈しく、突出して来る門弟の槍先を――流石に、修練した神経で、反射的に避けながら、声だけは大きく
「とう」
と、懸けはしたが、何時ものような、鋭さが――門弟が
(病気かしら)
と、疑うまでに、無くなっていた。そして、羽目板の所に立ったり、坐ったりしながら、囁合ったり、汗をふいたりしている門弟をみても
(わしの事を噂しているのではないか)
とか
(わしを、非難しているのでは、有るまいかしら)
とか、考えるようになった。そして、そうした疑を、門弟にさえ持つようになった自分の心の卑しさを
(意気地無しが――)
と、自分で、叱りながら――然し、では、何うしていいのか、それは判らなかった。
(河合又五郎の妹の婿故、助太刀に出なくてはならぬ。何故かなら、縁も無い旗本が、あれだけ援助しているのに縁につながる者が、出ぬ筈は無い――尤もらしい言葉だ。然し――又五郎の殺したのは、数馬の弟の源太夫では無いか? 弟の仇を討つ――そういう法は無い筈だ。もし荒木と、数馬とが、その法を無視して、又五郎を討つなら濫《みだ》りに、私闘を行った罪として、処分されなくてはならぬし、この明白な事を知りながら、助太刀に出たわしも、処分されなくてはならぬ。そうした場合、主君に対して、何うして、申訳が立つか?)
美濃国、戸田左門氏鉄の、槍術指南役として、二百石を頂いている半兵衛であった。
旗本と、池田との、大争いとなって、池田公が、急死し、又五郎が、江戸を追われたと、世間へ噂の立った時、家中の人々は
「半兵衛が、助太刀に出るだろうか」
「そりゃ、旗本に対しても、出ずばなるまい。他人の旗本でさえ、あれまでにしたものを、助太刀にも出ずして、むざむざ又五郎を討たれては、武士の一分《いちぶん》が、立たぬではないか?」
と、云った。だが、氏鉄や、その外の、重臣は
「濫りに出るべき場合ではない」
と、云ったし、家老は、半兵衛を呼んで
「あの事件が、ただの仇討とか、上意討とかなら、助太刀に出ようと、出まいと、何んでも無いが、御老中まで、持て余されて、池田公を、毒殺したとか、せんとかの噂さえ立っている事件だ。幕府が、こうして、すっかり手を焼いているのに――無事に納めようとしているのに、濫りに、助太刀などに出て、事を大きくしては、上に対して、恐れがある。いかなる事が当家へふりかかってくるか判らぬ。よいか、ここの分別が大事|故《ゆえ》、家中の者が何と申そうと、助太刀などは致さぬよう、とくと、申付けておくぞ」
と、申渡した。だが、半兵衛は、自分に対する、家中の噂を聞くと、稽古の時にまで、考えなくてはならなかった。
二
城中の、広庭の隅に設けてある稽古揚へ行って、重役の人々に、一手二手の稽古をつけて、夜詰の衆の溜り前の廊下へかかってくると
「荒木が、御前試合の中へ加わったというのは――そんなにいい腕かのう」
一人が、腕組したまま、柱に凭《よ》りかかって、大きい声で話していた。半兵衛は、その言葉が、耳に入ると共に、うるささと、軽い憤りとが起ってきた。
(家中の奴等は、わし一人を、いじめている)
と、いう風に感じた。そして、開いている襖から、顔を出して
「お揃いだな」
と、少し、蒼白くなった額をして、中へ入った。人々は半兵衛を見上げて、暫《しばら》く黙ったが、一人が半兵衛が坐ると同時に
「お聞きしたいが」
と、膝を向けた。
「何を?」
「将軍家御前試合に、荒木又右衛門が加わったと申すが、何故、荒木の如き、田舎侍が、歴々の中へ加わったので御座ろうか? 是水軒にしても、一伝斎にしても、一心斎にしても、天下高名な剣客であるのに、郡山藩の師範として、高々二百石位の荒木が、何故、この尊い試合に加えられたか、合点が行かぬ」
「腕が優れているからであろう」
と、一人が云った。半兵衛が
「それも、そうだが、荒木は、柳生|宗矩《むねのり》殿の弟子として、又右衛門という但馬守殿の通称を、譲られた位の愛《まな》弟子故と――今一つは、例の河合又五郎の一件に、助太刀をしてもおるし、一期の晴れの場所故、一生の思出として、荒木も出たかろうし、但馬殿も、出したかったのであろう」
「成る程、そういう事情があるかもしれぬ。対手は、宮本武蔵の忰八五郎だというが、これは使手《つかいて》で御座ろうか」
「武蔵が、好んで、養子にした者なら、申すに及ぶまい」
「では、勝負は?」
「それは判らぬ」
「二百石なら、貴殿も、二百石で、大した相違が、禄高から申せば無い訳だが、矢張り、ちがうものかの。甚だぶしつけだが、もし、荒木と立合えば、貴殿との勝負は?」
半兵衛は、固い微笑をして、
「時の運」
と、一言云った。人々は、余りに、ぶしつけな質問をしたのに、興をさまして、黙っていると、半兵衛が
「槍をとれば、大言ながら、相打ちにまでは勝負しよう」
そう云うと、立上った。問うた者が、周章《あわ》てて
「桜井氏、御立腹なさらぬよう」
と、叫んだが、もう、半兵衛は廊下へ出てしまっていた。
(同じ二百石。荒木と、わしと――だが、荒木は御前試合に出て、剣士一代の晴れの勝負をしたし、わしは、この田舎で、一生、田舎武士の師範で、朽ちるのだ)
そう思うと、堪らなく、不快に――歩いている左右の家々も、樹々も、空気も――岐阜の一切が嫌になってきた。
(又五郎の事など、何うでもよい。荒木と、わしとを較べて、わしがそんなに、劣っているか、何うか? 自慢をするのでは無いが、わしも、一流を究めているつもりだ。荒木も、勿論達人であろうが、その技の差は、紙一重――討つにしても、討たれるにしても、むざと、負けぬだけの自信はある。又五郎に、助太刀するとか、せんとかは、二の次の話だ。二百石と、二百石。同じ石高で、一方は、将軍の前に、その剣技を見せ――わしは――わしは、その試合に撰ばれもせぬに、荒木と、同じ禄を頂戴している――意地悪く見れば、殿を欺いているものだ。禄盗人だ。よし、わしは荒木より、そんなに、腕が劣っているか、いないか、荒木と勝負してみよう。武を人に教える者として、今の一言は、聞きずてにならぬ。討たれたなら、それは、二百石の腕もないのに、二百石を頂戴していた罰《ばち》が当ったのだ。討てば――?)
戸田の家中で、槍をとっては、霞の半兵衛と、綽名《あだな》されている桜井であった。
(討たれても、わしは、見苦しくは、負けまい。立派に勝負して、御前試合へ出た者のみが強いか、出ぬ者でも強いか――天下には、わし以外にも、こんな噂をされて、口惜しがっている師範役が、多いであろう。その人々の為にも、わしは、又五郎に助太刀してやろう。いいや、助太刀をするのでは無い。荒木と勝負をするのだ。同じ二百石同士の腕を競べるのだ)
もう暮れかかろうとする町の中を――冬の初めとて、金華山から、山嵐の吹いてくる中を邸の方へ、急いだ。
(妻が不憫《ふびん》だが、仕方が無い。武士の意地だ。これこそ、本当の、武士の意地だ――人には云えぬ、半兵衛一人だけの、だが、我慢のできぬ意地だ)
半兵衛の、頭の中は、熱を持っていた。我慢のしきれぬ、不快な力が、身体中に、溢《あふ》れてきていた。
(明朝にでも、立ちたい。一刻も、我慢がならぬ)
と、感じた。だが、邸の門が、黒々と見えると共に
(女房が、驚くであろうな)
と、思って、胸の中に、固くつかえてくる物のあるのを感じた。
三
女房の、里恵は、黄昏近いほの明りの縁側に出て、何か縫物をしていた。玄関に、夫を出迎える召使の声を聞いて、縫物を、押入れへ入れて、廊下へ出ようとすると、もう其処に、夫の姿があった。
「お帰り遊ばしませ」
里恵は、こう云って、ちらっと夫の顔を見たが、夫の表情は、いつもの日と、同じようであった。
(今日も、よかった)
里恵は、夫の性質を知っているだけに、何時、助太刀に立とうと云い出すか、知れないのを恐れもし、諦めてもいた。諦め切れぬ思いを、諦めようとして、夫の周囲に立った噂を聞いた日から、半兵衛と同じように――いいや、半兵衛以上に、心の中で、夫と別れる時の事を考えては、苦しんでいた。
その別れは、生別であり、死別であった。戸田の家中の使手として、海道にも響いている夫が、又五郎の妹婿であるというだけで、――自分につながる縁というだけで、生死の判らぬ旅+出て――。
里恵は、又五郎を兄としていたが、好ましい兄だとは、思っていなかった。里恵にとって、兄と夫との比較は、他人と、自分との比較と同じようなものであった。ただ一人の男の子として、父母に可愛がられていた我儘な兄、三人の女姉妹の中の子として、一番誰よりも、うとんぜられていて、早く出て行け、と云わんばかりにして、半兵衛の所へ嫁がされた記憶。
いろいろの事を想出しても、女姉妹同士には、いくらかの親しみを感じたが、兄の又五郎には、何も感じなかった――というよりも、源太夫を殺して逃げた、刀の鞘を置忘れて逃げたという話を聞いた時には、夫の前で、口も利けなかった。世間の夫なら
「やくざの兄だの」
と、不機嫌な顔の一つでもする所を、半兵衛は
「舟遊びに参ろうか」
と、里恵の心を察して、気晴しに連れて行って、何一つ、又五郎の事は口にしなかった夫。
その夫が兄の為に、助太刀をしなくてはならぬ――と、家中の人々の噂は、里恵に、二重の苦しみを与えた。夫と別れる悲しさ、そうして、そんな兄の為に、そんな事をしなくてはならぬ侍の義理と、又五郎の妹という苦しさ。
(きっと、夫は、助太刀に行くであろう)
里恵は
(自分にからまる義理?――それは、何んな事? 自分は兄を兄とも思っていないし、助太刀所か、兄の首を討って、夫の手柄になるなら、兄を討ってもいい、とさえ考えているのに、その妹に、義理が、からまるとは? 妾は、そんな義理など、少しも考えていないのに――そんなことの為に、夫が妾へ、義理を立てる? それは、世間体もあろうが――世間体、武士の義理。そんな物が、そんな物が)
里恵は、兄の又五郎が、好もしい男なら、自分から、夫に、助太刀をしてやって下さいと、云えたが、それさえ云いたくない兄への反感。それに、その妹への義理立てをしなくてはならぬという世間――。
(何という、訳の判らない世間であろう)
里恵は、そう考えていたが――だが、武士の娘であった。いや、半兵衛の女房であった。彼女は、家中に対する夫の面目の為に、いつでも、発足できるよう、新らしい旅仕度を調えながら――だが、泣いていた。
四
「里恵」
そう云った夫の眼、夫の口調、それから、その正しい坐り方に、里恵は
(今日は?)
と、そう思っただけで、もう胸の中が、固くなってしまった。
「又五郎殿の、助太刀に出る」
里恵は、俯《うつむ》いた。
「兼々、家中の噂を存じておろう。然し、わしは、噂によって、噂に押されて、嫌々ながら、助太刀に出るのでは無い。形は、助太刀であるが、心は、荒木又右衛門なる者と一手合《ひとてあわせ》したいからじゃ。お前にだけは、打明けておくが、荒木も、郡山で二百石、わしも二百石。その荒木が、今度存じておろう、将軍家の御前試合に出た。同じ二百石であり乍《なが》ら、将軍家の前へ出られるのと、出られぬのと、どんな違いがあるか? それを天下に示したい。又五郎への助太刀は、士道の表向の意地立てだけだ、わしは気が進まぬし、断る口実は立派にある。ただ、形だけの事で、わしは出たくも無いのに、家中の虫けらに、評判されたからとて出て行く程の小心者でも無
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