い。然し、同じ二百石でも、御前試合へ出る二百石と、出ない二百石とは、格段の相違があろうと云われたのは心外だ。殿に対して、わしは、わしの値打を示さぬと、二度と、この二百石は頂戴しかねる。それに、今出ぬと、半兵衛め、あれ見よ、荒木が御前試合に出る位強いから、同じ二百石取りであり乍ら、怯じ気がついて出ないのであろうと云われるのも、無念だ。わしから進んで――誰が、何と申そうとも、今度は出る。覚悟をしてくれ」
里恵は、すぐ、涙の落ちそうになる眼を伏せたまま、黙って立上ると、押入れの襖を開けた。そして、一包の物を持出してきて
「旅仕度で、御座ります」
と、いうと、はらはらと、涙が落ちた。
「兄への助太刀の為と仰しゃれば、一度はお止め致す所存で御座りました。なれど、妾の覚悟を示す為としては、これ、この通り、ちゃんと――」
と、云って、風呂敷を開くと、合羽、脚絆、道中服が揃えてあった。
「いつ――御出立になりますか、と、そればかり、毎日毎日――」
半兵衛は、妻の涙を、じっと、見つめていた。
「お帰りの時のお顔色、お出ましの時のお顔色、そればかりを見ておりまして、御留守の間には、旅仕度を、只今もこれにて、腹巻を縫うておりましたが、未練ながら、これが、今生《こんじょう》での、お別れになるかと思いますと、生きているのも果敢《はか》なく覚えますが、然し、武士の妻として、いつでも、御出立出来るように、用意は――」
と、云って、真綿入りの肌襦袢、刺子《さしこ》の股引、それから立って行って、腹巻に、お守札の縫込んだのを出してきて
「首尾よく、荒木に、お打勝ち下されますよう――又、又――」
里恵の声は、顫えて、脣《くちびる》は痙攣《けいれん》していた。
「時の運にて、御不利になりましょうと、背に傷を受けず、御立派に――」
と、まで云うと、しゃくり上げて、袖の中へ、顔を包んでしまった。離れ難い、愛着の心を、武士の妻として、立派に処置している若い里恵の泣いている姿をみると、半兵衛は何故かしら、又五郎が憎くて、耐らなくなってきた。
(己が、人殺をしておいて、己の命を助かりたさに、この罪もない妹を、こんな目に逢わせ、わしをも、生死の境に置いて――)
と、思うと、明らかに、形の上に於て助けに行く又五郎であるのに、心の中では、軽蔑し、憤った。そして
(わしは、わしの為に、行くのだ。又五郎の為にでは無いぞ。誰が、汝等如き、卑怯者を、援けるものか)
と、思った。
五
いつ、どこで、敵に逢い、討つか、討たれるか判らない夫の身の上であった。
仏壇には、いつも、灯が新らしく、そして、陰膳《かげぜん》が美しく――ただ、その中に一つ、気味の悪いのは、薄絹の上の紙の中にある、髪の切ったものであった。
「御家様、内山様が、おみえなされました」
「ま――」
里恵は、家老の来訪と聞いて、周章てて、客間の用意をさせていると
「いや、かまうな、かまうな」
と、もう廊下に声がして、内山が、入ってきた。そして
「おお」
と、笑った。里恵が、両手を突いて、挨拶しかけると
「忙がしい故、そのまま、そのまま」
と、云って、立ったままで、庭を見乍ら
「よい話を、知らせにきた。実はの」
「はい」
手を突いたまま、顔を上げると
「城下へ、荒木又右衛門が、数馬同道で、参ったのじゃ」
「ええ?」
里恵は、顔色をかえた。
「茶店で、或は、宿で、いろいろと、半兵衛の事を聞きただして、すぐ、発足したらしいが、宿の者の話によると、余程、荒木も、半兵衛の槍を、恐れているらしいのじゃ。繰返し、繰返し、槍の長さとか、穂の長さとか、得手は、管槍《くだやり》か、素槍《すやり》か、とか、いろいろ聞いて参ったそうだ。江戸よりの下り道であろう。半兵衛は、名代の腕故、荒木も、穿鑿《せんさく》に参ったものであろうが、御前試合にて、宮本八五郎と、相打になった程の勇士が、心得とは申しながら、半兵衛の事を、訊ねに参ったとは、武士の誉れじゃ。半兵衛がおったなら、一試合させるものを、周章てて、立去ったと申すが――」
「荒木様と、何うして、お判りに」
「数馬が、古今の美男であるし、すぐ、判って、あとを追うたが、もう、足が届かなんだ。荒木程の者が、用心しておるのだから、半兵衛も、名誉な事じゃ。一人で、淋しかろうが、落胆せずに、待っておるがよい。これだけじゃ」
「あの、お茶一つ」
内山の後姿へ、声をかけたが、内山は
「又、又」
と、手をあげて、どんどん廊下を、玄関へ出てしまった。里恵は、式台の上で、内山を見送ってしまうと
(荒木程の者が、と――それは、明らかに、夫より、荒木を豪《つよ》いと考えている言葉だ。夫は、それを憤って出て行ったのだが――)
と、思うと、里恵は、家老に腹が立ってきた。
(いい事を知らせるとは、夫よりも、荒木がえらい、という事を、知らせる事では御座りませぬ――でも、荒木様は夫の事を、訊ねに――)
と、夫の噂を聞いて、大敵とおもい、様子を尋ねに来た又右衛門の事を考えると、夫を殺す敵だと、思うよりも、夫を理解し、知っていてくれる人だと感じて、何かしら、親しみさえ感じてきた。
六
又五郎は、奈良手貝、河合甚左衛門の仮宅に、身を寄せていた。
江戸から、広島へ、広島から、大阪、奈良へと、己の身体を匿《かく》すのに忙がしかった又五郎は、すっかり、陽に灼けて、旅窶《たびやつ》れがしていた。半兵衛には、それが、可哀そうに見えるよりも、意気地無しのように見えた。そして、それは、又五郎の叔父の、甚左衛門も、同じことであった。甚左衛門は、半兵衛が、知行を捨てて、加勢に来てくれたのを見て、又五郎に
「貴様、のめのめして逃廻るから、皆が、迷惑する」
と、笑いながら云った。そして
「旗本への手前――旗本が、あれだけ援けて、かばってくれた手前、易々と、池田の者へ首は渡せんから、匿れるのも尤もだが、然し、逃廻ったのは、面白うない。河合又五郎宿泊と、立札でも建てて、もし、池田の者でも、斬込んだなら、よし、討たれるにせよ、一働き働いて死ぬなら武名は、後世に残るが、此奴には、その覚悟がない」
「死ぬよりは、生きている方が、おもしろいからなあ。又五郎。近頃の若い士は、武士の面目ということよりも、金と、女と、長生きという事の方を尊ぶようになった。時勢らしい」
と、半兵衛が、笑った。そして
「河合殿と、荒木とは、御同藩だが、荒木は、何ういう腕、人物――」
「彼奴、但馬のお気に入りで、今度も、名誉な試合に出たが、腕は、さのみ、わしに優っておろうとは思わぬ。もし、今にも、彼奴と逢えば、勝負は時の運と申そうか? 紙一重と申そうか。必ず討つとも云えぬし、必ず討たれるとも申せぬ。人物は――まず、上出来かのう。わしよりは、当世であろうか、わしは、此奴が、只一人で、江戸を追われたと聞いた時、すぐ、助太刀をしてやろうと、殿へ御暇を頂戴したが、何を考えたか、荒木という奴は、余程経たんと、お暇をとらなかった。あの間考えているだけ、わしより、分別があるのかのう。あはははは」
又五郎が、半兵衛に
「叔父は、古武士気質と申そうか、一徹者で、何か荒木の計にかかるように思えてならん。郡山の藩中の人間に聞いても、腕は、叔父も、荒木も互角だが、人気は荒木の方が高い。その高い訳は、稽古は、上手下手の手加減がある。然し、叔父には、ただ荒稽古だけだと――」
「それでよいのだ。わしの荒稽古一つ受けられん奴が、一朝事のあった時、馬前の役に立つものか。荒木の稽古で、下手が少々上達したとて、そんな稽古の剣術は、真剣の時の物の役には立たぬ、剣術とは、徒らに竹刀の末の技では無いぞ。いざと云えば、火水の中へも飛込む肚を慥《こしら》えるものだ。お前なぞ、その肚が、一番に出来とらんぞ」
半兵衛は、荒木の稽古振りが判るような気がした。甚左衛門は、己の腕をたのんで、敵を知ろうとしないが、荒木は、己を知り、敵をも知ろうとしていると、考えた。
「半兵衛が来た上は、こんな所に、手間どっている必要は無い。早々に、江戸へ立とう、二百石の格式通り、弓、槍を立てて、いつ荒木と出逢ってもよいようにして、白昼堂々江戸へ入ろう。よし、討っても、討たれても、それが、武士らしい態度だ。ならば、旗でも立てて、河合又五郎一行と書きたいが、そうもならんでのう、半兵衛」
甚左衛門は、又、大きく笑った。
七
馬は、霜柱を、さくさく砕いて、白い鼻煙を、長く吹いていた。長田橋の仮橋の上へきた時
「半兵衛、待った、待った」
と、甚左衛門が、後方から、叫んだ。半兵衛が振向くと
「寒うてならんから、一枚重ねる」
と、声をかけて、馬を停めた。半兵衛は、頷《うなず》いたが
(油断をしてはいけないのに)
と、思った。寒い朝であったから、誰も厚着をしていた。その上へ又重ねては、いざという時に働けまい、と思ったが、然し、荒木の一行が、昨日から見えなかったから、半兵衛も
(寒いのに、耐えきれまい。河合も、もう四十すぎだから――)
と、思って、正面の上野の町やら、来た方の山、田を、見廻していた。
(武芸も四十を越すと、少し下り坂になるかな。寒さが、あれだけ身にこたえるだけ、若い時よりも衰えたのか――いいや、修業一つだろう。六十になっても、袷一枚でいる人さえあるから)
半兵衛は、甚左衛門が相当の腕の人だとは思っていたが、その頭、その肚に於て、荒木の方が、優れていると、判断していた。そして
(わしはわし一人で戦うのだ。誰もあてにはしないぞ)
と、思うと、甚左の重ね着に、批評を加えたのも、いけないように思えた。
(他人が、何をしようが、わしは、わし一人だ)
そう思って、馬をそろそろ歩かせかけると
「お待たせ申した」
と、甚左が、叫んだ。そして、
「齢をとると、寒さだけには、耐えきれん」
と、云った。
一行の一番先には、大阪の町人、又五郎の妹婿虎屋五左衛門が馬で、その次に、半兵衛が、槍持と、下人と、小姓と三人を従えてつづき、その後方に又五郎が、供三人、最後に、甚左衛門が、同じく供三人をつれて、槍を立て、飾鉄砲に、弓矢をもち、それぞれその知行の格式で――所謂《いわゆる》、槍一筋の家柄をみせて、上野の町小田町へかかってきた。
突当りが、高い石垣で、その上に、家があった。右へは、すぐ塔世坂の急な坂路が町へつづき、左は、細い小路を、城の裏手へ出る道であった。
そして、その三つ股道の左右に、鍵屋と、万《よろず》屋と、二軒の茶店が、角店として、旅人を送り迎えしていた(右角が、鍵屋であったという説もある。今そこには、新らしい数馬茶店というのが出来ている)。
八
半兵衛が万屋の角を、右へ曲ると同時に、左側の石垣の所の木の後ろに立っていた士が、走り出してきた。白い鉢巻をしめて、袴立《ももだ》ちをとっていた。半兵衛が
(さては)
と思った時、後方に、鋭い気合がかかって、同時に、うわーっと、乱れ立った人声が、湧起った。
「喜助っ」
と、半兵衛は、手を延して、槍持から、槍を取ろうとした。そして、槍持が
「はい」
と、答えて、槍を半兵衛の方へ、差出そうとした刹那
「うぬっ」
その駈出してきた男が、槍持へ、切りかかった。槍持が、その刀を避けたはずみに、槍の柄は、半兵衛の手から、遠去《とおざ》かった。
「喜助」
半兵衛が、こう叫びつつ、後方へ、横へ眼を配ると、右側の立木の間から、走ってきた士が、半兵衛へ刀を向けて、睨みながら、じりじり迫ったので、半兵衛は、槍に心を取られたまま、馬から飛降りて、刀を抜くと、槍持に
「槍を、早く」
と、叫びつつ、迫る士に、刀を構えた。そして
(荒木は、甚左と戦っているのであろう。甚左も、むざむざと討たれはすまい。然し、荒木を甚左に討たせたくは無い、わしが強いか、荒木が強いか、わしは、その勝負の為に、出てきたのだ)
半兵衛は、早く、この下人を斬って、荒木と勝負したいと思った。それで
「下郎、推参なっ」
と、叫ぶと、じりじり刻んで行った。刀をとって
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