も、対手とは、段ちがいであった。対手は、真赤な顔をして、脣を噛んで――だが、懸声もできないで、じりじり退りながら、――然し、必死の一撃を入れようと、刀の尖《さき》の上りかけた隙、半兵衛は
「や、やっ」
 打込んで、避けさせて、すぐ二の太刀に、肩を斬ると、対手は、よろめいて、三四尺も退った。半兵衛は
(槍だ。槍をとらぬと、太刀討はできない、槍だ。槍をとって――)
 甚左の方では、少しも、物音がしなくなってしまった。
(勝負がついたのか、それとも――)
 と、思いながら、槍持の方を見ると、もう見物人が、坂の上に、木の後方に、石垣の上に、真黒になっていた。そして、槍持は、一生懸命に、槍を振廻して、半兵衛の方へ渡さうと、対手の隙をねらっていたが、対手は、刀で、槍を叩いたり、避けて、飛込もう[#「もう」は底本では「まう」]とする様子をしたりして、槍持と、半兵衛との間を、妨げていた。半兵衛は
(荒木が、わしの槍を恐れて、わしに槍をとらすなと、命じたのだ)
 と、判断した。
「卑怯者っ」
 と、後方で声がした。振向くと、肩を切られて、もう、蒼白になって、刀尖《きっさき》が、ややもすると下り勝ちになってくるのを耐えながら、半兵衛に、
「逃げるか」
 と、叫んで睨みつけた。そして立留って肩で呼吸《いき》をした。
(可哀そうに――この二人が、わしを押えにかかったのだ。荒木は、上手に作戦をした。わしは、荒木の作戦にかかったのだ。今ここへ、荒木が来たなら、わしは、わしの不得手な刀で、闘わなくてはならぬ。槍だ、槍で無いと――)
 殿の名誉の為、妻の志の為、自分の武道の為――
(槍をとらぬと――)
 と、半兵衛は、可哀そうだとおもったが
「馬鹿っ」
 と、叫んで、一刀、斬下ろしておいて、すぐ槍持と戦っている[#「いる」は底本では「ゐる」]士へ
「除かぬかっ」
 と、叫びつつ、血刀を振上げた。その士が、半兵衛の方へ刀をつけ、槍持が
「旦那様」
 と、叫んで、槍の柄を延した時、
「半兵衛」
 声と共に、大きな足音がした。
(荒木だ)
 と、思うと、半兵衛は、槍の方へ、手を延した。だが、又、槍は、ほんの手先の所へ来たままで、遠去かって、槍持の手の中で、必死に振廻されていた。
「荒木だ」
 少し、蒼白《あおざ》めた顔をして、上背のある荒木が、長い、厚い刀を構えていた。半兵衛より、ずっと高くて、がっしりしていた。羽織もなく、鎖鉢巻をして、十分に、軽い身なりであった。そして、その脣に、微かな余裕の笑をみせ、その呼吸は落ちつき、その構えは十分に、その足は正確に――、半兵衛は
(天晴れだ)
 と、感じると共に、槍をもって立合えないのが、腸《はらわた》の底から、悲憤して、滲み上ってきた。
(何故、この期に、槍がとれない? 負けても――勝を譲ってもいいから、槍で、十分の、心ゆくまでの勝負がしたい。この大勢の見物の前で、同じ二百石同士が――御前試合へ出た荒木と、出ぬわしと、どっちが、鮮かか、どっちが立派な態度か? わしが、槍術の家の者として、せめて、最後の働きには、槍で十分に試合ってみたい、槍が――)
 半兵衛は、自分に、槍をとらさぬよう計った荒木に
(何うだ、噂を聞いて、恐れたのだろう)
 と、云いたかったが、それは、口にすべき事でなかった。と同時に、自分の得手を封じて、不得手な刀で勝負しようとしている荒木の、武士らしくない、正直でない、策略のある態度に、怒りが生じてきた。
(この見物人は、そんな事を知らんであろう。わしが、美濃の桜井半兵衛である事を知らんであろう、矢張り、剣術の者だと考えているだろう。それはちがうぞ。わしは、槍さえとれば、荒木に五分の勝負は、できるんだ。誰か、荒木に、半兵衛に槍をやれ、荒木卑怯だと、云ってくれるものは無いかしら――いいや、そんな事を考えるのは、卑怯だ。わしの不得手な太刀で、何《ど》れだけ、荒木と戦えるか? 勝敗は別として、わしが、何れだけ立派に戦ったか。それでいいのだ。わしの、立派に戦った事が、国の人へ判るなら、半兵衛が、あの時、槍さえもっていたなら、荒木と互角だと、云ってくれるだろう。槍持が、荒木の計にのったのは、わしの運のつきる所だ。わしは、太刀で、立派に荒木と戦って、立派に、負けてやろう。武士の重んじる所は、勝敗ではない。勝負は末だ。勝負をしている時の態度だ)
 半兵衛は、青眼につけて、荒木と向合った。そして、そのまま、お互に動かなかった。
 何の位経ったか、半兵衛には、判らなかった。呼吸が苦しくなり、汗が滲んできた。そして、荒木も、もう微笑を消して、眼を異様に光らせて――それは、可成りに、切迫している表情であった。
(わしは、わしの不得手な太刀打でも、これまでに試合した。もうこれで十分だ。この大勢の見物の中には、心ある人も、眼の開いた人もあろう。誰かがこの事を、国の人々へ伝えてくれるであろう。それでいい。わしが、得手の槍で負けたのよりも、不得手な刀で、ここまで戦ったほうが、却っていいかも知れない)
 そう考えた時、一足退った。そして
(しまった)
 と、心の中で叫んだ。何かの上へ、蹠《あしうら》がのって滑ったからであった。そして、無意識に、荒木が、打込んでくるであろう刀を防ごうとした時、身体が崩れてよろめいた。果して、荒木は、この一髪の機を握《つか》んで、打込んできた。半兵衛は、鍵屋の横の物置の中へうんとつんである枯松葉の中へ、どっと、倒れてしまった。

    九

 身体中が、疼痛《とうつう》に灼けつくようであった。咽喉《のど》が干いて全身に熱が出て、気が時々、遠くなった。
 手当をし、介抱し、薬をつけ、飲ましてくれる人の顔がぼんやりとしか、見えなかった。そして半兵衛の頭も、どんよりとしていて、時々、自分が槍で、荒木と戦っているのが見えた。
(立派に戦ったぞ。槍でなくとも、立派に――あの枯松葉で、滑りさえしなかったら、勝負は、もっと、長くなったのだ。俺には、二度不運がつづいた。だが、十分に戦ったぞ。この事を、国許へ――手紙をかきたいが、誰か――話でもいいから、誰か――)
 ぼんやりしてくる頭の中で、そんな事を、思いながら
「わしは、卑怯者でないと」
 一人が、首を延して、口許へ耳を寄せた。
「国許へ――立派に戦ったと」
 その人が、頷いた。
「背の傷は――倒れてから――斬られた」
「全く、あいつは卑怯な――」
 と、その人が答えた。
「国許へ、半兵衛は、荒木と太刀打をしたが、立派に戦ったと――」
「しかと申しますぞ。気を落さずに」
「妻にも、半兵衛は、荒木に劣っていなかったと――」
 そう云いながら、もう、その人の顔が、だんだんぼんやりとしか見えなくなってきた。
(わしは、立派に戦った。見ていた人が知ってくれよう。一人が荒木、一人が桜井と、後で判ったなら、知っている者は、わしを称めてくれるだろう。御前試合へ出ても、出なくても、心懸けある士は同じだと――妻に一目――家中の者にも詳しく話をしたいが――ここの人は、伝えてくれるかしら――又五郎の助太刀だと思って、悪く云うか?――いいや、志のある人には判るだろう)
 そう思っている内に、耳も聞えなくなってきた。
(わしは、もう駄目かも知れん。然し、士として、武術家として、立派に働きもしたし、考えもした。誰かが――いいや、妻だけでも、あいつだけは、知ってくれる。それでもいい――)
 半兵衛は、灰色の中に、自分と妻と二人ぎりの所を見た。

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 附記 伊賀越の仇討は、荒木方四人、又五郎方士分、小者ともで、合せて十一人と、藤堂家の公文書「累世記事」にも残っているし、その外俗書にも、同じであるが、一竜斎貞山(二代目)が、附人を三十六人にして、これが当って以来、すっかり、この方が一般的になってしまった。この桜井半兵衛の如き、二十三歳で、立派な武士だが、本当に紹介されていないのは、遺憾である。この時、荒木が斬ったのは、河合甚左衛門と、この桜井半兵衛との二人だけである。
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底本:「直木三十五作品集」文藝春秋
   1989(平成元)年2月15日第1刷発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:鈴木厚司
2006年10月24日作成
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