を飛出して裏の船着きに出てみた。が、一双しかない橈舟はすでに中流に出ていて、老ポウルが年齢に似合ぬ力を出しながら川上の方へ急がせつつあるのであった。
「私は御前様を御救い申すのです。まだ間に合います!」その眼は気狂《きちが》いのように光っていた。
師父ブラウンは今更どうする事も出来ずに、舟が上流の方へ※[#「あしへん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》き行くのを眺めつつ、ただ老人が早く例の村へ急を告げてくれるようにと祈るばかりだった。
「どうも決闘などとは善うないこっちゃ」と彼はむしゃくしゃした埃色の頭髪を撫でながら云った。「しかし、この決闘は、ただ決闘としても場違いのようじゃ。どうもわしは心からそう感ぜられてならんが、しかしどうにもならん!」
そして彼はゆらめく鏡のように夕日に照映える川波を見つめていると、島の向うの岸からある微かなしかしまぎれもない音が響いて来た――劔々相摩《けんけんあいま》する音だ。彼はうしろを振り向いた。
細長い島の遥かなる岬のような端、薔薇の花壇の向側の芝生の禿げたところに、二人の決闘者は早や劔《けん》を合していた。二人は上衣を脱いで[#「で」は底本では「て」]いるが、サレーダインの黄色い短衣《ちょっき》と白髪頭、アーントネリの赤短衣と白ズボンはぜんまい仕掛の踊人形の色彩のように、夕日の中にきらめいていた。二つの劔《つるぎ》は切尖《きっさき》から※[#「木+覇」、第4水準2-15-85]頭まで、二本のダイヤモンド留針《とめばり》のように光っていた。
ブラウンは一生懸命に走った、彼の短かい足は車輪のように廻った。けれども彼が格闘の場に到着した時はすでに余りに遅くもあり、また余りに早くもあった――橈にもたれてこっちを睨まえつつある家来共の監視の下に、決闘を中止させるには余りに遅く、またその悲惨なる結末を予見するには余りに早かった。なぜといって二人の力量は不思議なほどに互角で、公爵は一種の皮肉的な自信を以て覚えの腕を振いつつあるに対し、アーントネリは殺狂的の用心を以てふるいつつあったからだ。目まぐるしい火花の出そうな激しい手並の内がいつまで経っても優劣をつけがたいので、ブラウンも思わずホット息をついた。その内にはポウルが警官隊を連れて戻って来るに相違ない。それにフランボーが釣から帰って来てくれれば大いに頼みになるのだ。肉体的に云おうなら、フランボーは四人ぐらいの男を一人で引受けられるはずだから。しかし、そのフランボーは一向に引上げて来る様子はない。いや、それよりも怪しい事は、いつまでたってもポウルや警官が姿を見せないことだ。水面には筏《いかだ》さえ、否《いな》棒切れさえも浮んではいなかった。名もない河沼の離れ小島に、彼等はあたかも太平洋上の孤巌《こがん》に取残されたように絶縁されているのだ。
ブラウンがこんなことを考えている間に、劔戟《けんげき》の音がせわしくせまってカチャカチャという急調に早変りを始めた。公爵の両手は空に放たれ、相手の切尖が彼の背面、左右肩胛骨の中間にヌット顔を突出した。彼は子供が横翻筋斗《よことんぼがえり》[#「横翻筋斗」は底本では「模翻筋斗」]をうつのを半分でやめるような恰好に幾度か大きくキリキリ舞をした。劔《つるぎ》は流星のように彼の手からはなれて、遠くの川にもぐり込んだ。そして彼|自身《じみ》は大地をふるわしてドシンと倒れた。その拍子に大きな薔薇の木が押潰され、赤土が煙のように空に舞上った。シシリア人はかくして彼の父の霊に血のしたたる犠牲をささげた。
坊さんはすぐさま死体の側《そば》に駈寄った。が要するにもはや死骸に相違なかった。彼がなおもしやという望《のぞみ》なき望にひかされて死体をしらべていると、その時初めて遥かなる川上の方から人声がきこえて来た。そして一艘の警察船が、数人の警官、役人や、そして昂奮しているポウルをも乗せて、矢のように船着めがけて走って来た。坊さんは怪訝に堪えないむずかしい顔をして立上った。
「フン、何ぞそれ」と彼は独言《ひとりご》った。「何ぞそれ来たること遅きやじゃ!」
七分も経つと、その島は村人や警官等で一ぱいとなった。警官等は決闘の勝利者を引捉《ひっとら》えて、型の如く、この際愚図々々いうとためにならんと云いきかせた。
「我輩は何も云いたくない」アーントネリは平静な顔で云った。「吾輩はもう何んにも云わん心算《つもり》だ。吾輩は非常に幸福だ、吾輩はただ死刑に処せられるのを待つばかりだ」
それから彼は口を堅くつぐみさま、警官等の引立《ひった》てるがままに身体を任した。彼はその後で訊問を受けた時「有罪だ」とただ一言叫んだきり、また口を緘《かん》して語らなかったという事は不思議ながらも確かな事実である。
師父ブラウンは思いもよらぬ庭の人だかり
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