がサレーダイン公爵なら申入れるが、吾輩の名はアーントネリだ」と若者がいった。「アーントネリ」と公爵がさも面倒くさそうに繰返した。「どっかで聞いたような名じゃ」「よく見知り置かれよ」と伊太利《イタリー》人が云った。
 [#空白は底本では欠落]そして彼は左手で古代物のシルクハットを取り、右手で公爵の頬をいきなりビシャリとやったので、公爵の白帽が石段の上にコロコロと転がり、一つの鉢植がグラグラと揺れた。しかし公爵とても決して卑怯者ではない。いきなり彼は相手の頸ったまに躍りかかって、今少しで相手を芝生の上に突っ転がすところだった。が、敵はいそがしい中にも礼だけはくずさぬといった様な体の構えをしながら公爵の手をふりとった。
「それでよろしい」と彼はハアハアいいながらよく通じない英語で云った。「吾輩は侮辱をうけた。今その埋合せをしてやる。マールコーさあその箱を開けろ」
 マールコーと呼ばれた箱持の家来が若者の前へ進み出て箱の蓋を開けた。そして中から※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《つか》も刀身も共に鋼鉄製のピカピカとひかった二ふりの細長い伊太利《イタリー》剣を取出して芝生にザックと突刺した。怪しい若者は黄いろい顔に凄いほど復讐の色をみなぎらせながら玄関口に面して立った。二本の剣は二本の十字架の墓標でもある様に芝生に立った。夕日はまだ消えやらず芝生を赫々《あかあか》とはでに染めていた。そしてごい鷺もまたしきりにボコポンボコポンと啼いていた。何かしら小さな、しかし怖るべき運命を予告でもしているもののように。
「サレーダイン公爵」とアーントネリと呼ばれる男が云った。「汝は我輩がまだ物心のつかぬ嬰児であった時、我が父を殺して我が母を盗んだ。しかし汝は我輩が今から汝を殺すように手際よくは父を殺さなかった。汝と我が迷える母とは父をシシリア島の人なき路に馬車を連れ出して、絶壁の上から突き落し、その足で高飛した。我輩もまたその手で汝を瞞し撃ちにしてもよいのではあるが、それはあまりに卑劣だ。我輩は世界の隅々まで汝を追廻した。しかし汝は巧みに姿をくらましおった。だが今や遂に世界の涯までいや、汝の涯まで到着したんだ。汝は既に我が掌中にあり。我輩は汝が決して我が父に与えはしなかった機会を汝に与える。いずれなりとこの剣を取れ」
 公爵はしばし眉をしかめてためらう様に見えたが、殴られた耳の中がまだガンガン鳴っているのに気がつき、嚇《か》ッとして一歩前に乗出しながら、一つの剣をつかんだ、師父ブラウンもまた一歩前へ乗出して争いをとめようとした。が彼はたちまちにして、ここで自分が飛出したら事態はますます険悪になるばかりだろうと気がついた。サレーダインは仏蘭西《フランス》流の共済組合員でかつ極端な無神論者である。坊主の説法に耳を貸すような男ではない。更に相手はと見れば、これはまた坊主であろうとなかろうと、頭から人の意見に耳を貸しそうな男ではない。ナポレオン型の顔立ちと茶色の目とは、かの頑固一点張りの聖教徒よりも上手の頑固さをまざまざと物語っている。彼は地球の夜明け時代既に首斬役を開業していた人間のように見える――石器時代の人間――石の人間のような男だ。
 ブラウンは、今は家内の者に急を告げるより外に方法がなくなった。それで彼は家《うち》の中へ駈込んだけれども今日は下々の者が給仕頭の許しによって陸地の方へ遊びに出払《ではら》っていることを発見した、そしてただ陰気な家政婦のアンソニー夫人だけがおどおどしながら部屋々々を駈廻っているのを見た。しかし彼女が蒼ざめた顔をブラウンの方へ向けた瞬間、彼はこの「鏡の家」の謎の一端が見破られたように思った。闖入者アーントネリの陰鬱な茶色の眼とアンソニー夫人(英吉利名のアンソニーは伊太利名のアーントネリ)の同じく陰欝な茶色の眼! 突嗟の間にブラウンはもう話の半分が読めたと思った。
「あなたの息子さんが来てじゃ」と彼は手取り早く云った。「そして息子さんが死ななくば公爵さんが死のうと言う瀬戸際じゃ、ポウルさんはどこに居るかな?」
「あの人は裏の船着きにおります」女は力なげに云った。「あの人は‥‥あの人は‥‥今|救《すくい》を求めているのです!」
「アンソニー夫人」とブラウンは真顔になって、「この際、阿呆気《あほげ》な事を云っとられますまい。[#「。」は底本では欠落]わしの連《つれ》は今釣に行って舟がなし、あなたの息子さんの舟は御家来共が番をしている。あるのはあの橈舟ばかりじゃ。ポウルさんはあんなもんでどうしょうというのです?」
「聖母《サンタ》マリア! 私は存じません!」こう答えるなり彼女は気を喪《うしな》ってござ張りの床の上にバタリと卒倒した。
 ブラウンは彼女を抱き起して長椅子にねかせて、水瓶の水をそそぎかけて助けを呼んだ。彼は更に家
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