のかと思つたけれど、却つて呑気で好かつたわねえ、旅はこれだから面白いのねえ。」かう女は言つた。
 実際さうであつた。昨夜は福岡で大尽でもあるかのやうな派手な泊り方をした。その前の宮島でも矢張さうであつた。それがかうして質朴な山中の旅舎に泊るといふことも旅なればこそと思はれた。
 帰りには私達は窓から顔を離さなかつた。昨夜闇にすぎた谷には、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るやうな美しい瀬が、そこにも此処にもあらはれてゐた。津民川の流れて落ちるあたりは殊に感じがすぐれてゐた。五竜の滝は白い波頭を立てゝ見事に砕けてゐた。
 次第に私達は山を出て行つた。


 耶馬渓はしかし矢張天下の名勝たるには恥ぢなかつた。
 或はこれを球磨川の峡谷に比す、或はまたこれを熊野川の谷に比す、乃至はまた東北信飛の深い渓山に比して見る、さうして見れば、無論余りに浅い谷、余りにあはれな谷、余りに世間化した谷のやうに思はれるに相違ないが、しかしさうして比較して見るのは、初めて接した時の心持で、単にさうした比較で片附けて了ふことの出来ないやうな価値が、二度行き三度行く中に、次第に私の心に飲込めて来
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