ほ/\としてゐて、伴れの男が氷を買つて呉れても、それを飲むにすら気が進まないといふ風であつた。可愛い眼をした娘だつた。
「おゝ好い」
 かう女が言つたので、気が附くと、軌道車は既に美しい鮎返りの瀑を前にして、今しも樋田の洞門にかゝらうとしてゐた。山には山が重なり合ひ、雲はまたその山の上に※[#「分/土」、第4水準2−4−65]湧した。
 私はあちこちを女や女の母親に示した。「そら、そこの洞門の中を歩いて通つて行くんですよ。あそこに路があるんですよ。歩いて見ると、もつと非常に景色が好いんですがね。」
 段々帯岩一帯の奇岩が雨後の筍のやうに続々としてあらはれ出して来た。あるものは簇がる雲の中から、或るものは連なる峰の上から、時には松をあしらひ、時には檜の木の林を靡かせつゝ――そして渓は幾曲折しその間を流れて行つた。
 樋田から羅漢寺に来た時には、薄暮の色が既に迫つて、村や、橋や、谷や、路がぼつとぼかしの中に見えるやうになつた。霧も薄くかゝりつゝあつた。
 私は羅漢寺のある山のあたりを回顧して見たけれども、既にその髣髴をも認めることが出来なかつた。
 次第に谷は夜になつて行つた。ある停車場に
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