旅舎はあるに相違ない。しかし何ういふ旅舎が私達を迎へるであらうか。汚い蒲団、暗いわびしい室、碌々言葉もわからないやうな山中の民――かう思ふと旅の興も失せかけた。
 暫くして軌道車は出た。鉄道馬車の少し早い位である。ぐる/\と、中津の町は見えてそして隠れて行つた。頼山陽の最初に滞在した寺が其処から近いといふ停車場あたりからは、杉林が段々見え出して、向うに旧知の八面山《はちめんやま》がその城壁のやうな姿をあらはして来た。小さな停車場は停車場につゞいた。そして一杯に乗つてゐた人達は一人下り二人下りて、これからそろ/\渓に入らうとするところにある停車場に行つた時には、もう立つてゐるものもなくなる位に車室はゆるやかになつてゐた。
 雨も小降りになつた。
「好い塩梅ね――」
 かう女は喜ばしさうに言つた。
 やがて渓はその最初の潺渓を段々その前に展いて来た。村が山に凭つたり渓に沈んだりしてゐる。深く覗かれた谷には、瀬が白く美しく砕けてゐた。
 私は此の前に来た時のことなど思ひ浮べてゐた。其時は、中津から川に添つて、暑い道を馬車で来た。福岡に男と駈落した村の娘の伴れて帰られるのと一緒であつた。娘はし
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