らぶきや》と、汚ない八畳の間と、裏の栗の樹《き》と、真黒になつてヤンマ取りに夢中になつて居《ゐ》る八歳の子供と――其《その》子供が別の子供のやうに眼の前を通つた。
 後送された父親の遺留品の中に、手帳が一冊あつた。
 成長《おほき》くなつてから、私《わたし》は幾度《いくど》も其《その》手帳を見たことがある。
 普通の革の手帳で、鉛筆が一本挿してあつた、中《なか》には日記がつけてあつた。
 其《その》日記を私《わたし》は覚えて居《ゐ》る――
 四月十日
 昨夜長崎より船にて上陸す。
 賊軍少々抵抗したれど、忽《たち》まちにして退散す。気候暖かし。晴《はれ》。
 十一日
 八|代《しろ》にて昼食《ちうじき》。士民官軍を喜び迎ふ。
 甲佐《かふさ》方面に賊軍本営を置くとの説あり。
 菜の花既に盛《さかり》を過ぐ。
 十二日|曇《くもり》
 進軍
 十三日|晴《はれ》
 十四日|晴《はれ》
 これで跡は白くなつてゐる。十四日の午後、御船《みふね》附近の戦争で、父親は胸に弾丸《たま》を受けて、死屍《しゝ》となつて野に横《よこた》はつたのである。十四日|晴《はれ》――と書いて、後《あと》が何も書い
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