父の墓
田山花袋

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)停車場《ステーシヨン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半里|位《ぐらゐ》ある

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ところ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 停車場《ステーシヨン》から町の入口まで半里|位《ぐらゐ》ある。堤防になつてゐる二|間《けん》幅《はゞ》の路《みち》には、櫨《はぜ》の大きな並木が涼しい蔭《かげ》をつくつて居《ゐ》て、車夫の饅頭笠《まんぢうがさ》が其間《そのあひだ》を縫つて走つて行く。小石が出て居《ゐ》るので、車がガタガタ鳴つた。
 堤防の下には、処々《ところ/\》に茅葺《かやぶき》屋根が見える。汚ない水たまりがあつて、其処《そこ》に白く塵埃《ほこり》に塗《まみ》れた茅《かや》や薄《すゝき》が生えて居《ゐ》る。日影のキラキラする夏の午後の空に、起伏した山の皺《しわ》が明《あきら》かに印《いん》せられた。
 堤防の尽きた処《ところ》から、路《みち》はだらだらと下《お》りて、汚ない田舎町に入つて行く。
 路《みち》の角に車夫が五六人、木蔭《こかげ》を選んで客待《きやくまち》をして居《ゐ》た。其傍《そのかたはら》に小さな宮があつて、其《その》広場で、子供が集《あつま》つて独楽《こま》を廻して居《ゐ》た。
 思ひも懸けぬ細い路《みち》が、更に思ひもかけぬ汚い狭い衰《おとろ》へた町を前に展《ひろ》げた。溝《どぶ》の日に乾く臭《にほひ》と物の腐る臭《にほひ》と沈滞した埃《ほこり》の交《まじ》つた空気の臭《にほひ》とが凄《すさま》しく鼻を衝《つ》いた。理髪肆《とこや》の男の白い衣《ころも》は汚れて居《ゐ》るし、小間物屋の檐《のき》は傾いて居《ゐ》るし、二階屋の硝子窓は塵埃《ほこり》に白くなつて居《ゐ》るし、肴屋《さかなや》の番台は青く汚くなつて居《ゐ》るし、古着屋の店には、古着、古足袋、古シヤツ、古ヅボンなどが一面に並べてあるし、何処《どこ》を見ても衰《おとろ》への感じのしないものはなかつた。
 とある道の角に、三十|位《ぐらゐ》の卑《いや》しい女が、色の褪《さ》めた赤い腰巻を捲《まく》つて、男と立つて話をして居《ゐ》た。其処《そこ》に細い巷路《かうぢ》があつた。洗濯物が一面に干してあつた。
『肥後の八代《やつしろ》とも言はれる町が、まさかこんなでもあるまい。此処《こゝ》は裏町か何かで、賑《にぎや》かな大通《おほどほり》は別にあるだらう』と私《わたし》は思つた。成程《なるほど》、少し行くと、通《とほり》がいくらか綺麗《きれい》になつた。十字に交叉《かうさ》した路《みち》を右に折れると、やがて私《わたし》の選んだ旅店《やどや》の前に車夫は梶棒《かぢぼう》を下《おろ》した。
 私《わたし》の通された室《へや》は、奥の風通しの好《い》い二階であつた。八畳の座敷に六畳の副室があつた。衣桁《えかう》には手拭が一|筋《すぢ》風に吹かれて、拙《まづ》い山水《さんすゐ》の幅《ふく》が床の間に懸《か》けられてあつた。座敷からすぐ瓦屋根に続いて、縁側も欄干《てすり》もない。古い崩れがけた[#「崩れがけた」はママ]黒塀《くろべい》が隣とのしきりをしては居《ゐ》るが、隣の庭にある百日紅《さるすべり》は丁度《てうど》此方《こちら》の庭木であるかのやうに鮮《あざや》かにすぐ眼の前に咲いて居《ゐ》る。
 そして其《その》向ふに、同じつくりの二階屋がずらりと幾軒《いくけん》も並んで、其《そ》の裏を見せて居《ゐ》る。二階屋の裏! 其処《そこ》には蚊帳《かや》が釣つたまゝになつて居《を》る家《いへ》もあつた。雨戸が半ば明けられて、昨夜《ゆふべ》吊つたまゝの盆燈籠《ぼんどうろ》が其《その》軒に下げてある家《いへ》もあつた。雨戸の全く閉め切つてある家《いへ》もあつた。箪笥《たんす》、葛籠《つゞら》、長持《ながもち》、机などが見えた。不図《ふと》、其中《そのうち》の一軒から、艶《なまめ》かしい女が、白い脛《はぎ》を見せて、今時分《いまじぶん》ガラガラと雨戸を繰《く》り出《だし》た。
 茶を運んで出た女に、
『向ふの二階屋の表面《おもて》は大通りになつて[#「なつて」は底本では「なって」]居《ゐ》るのかね?』
『さうだツけん』と女は笑つた。
 其《その》二階屋の表の通《とほり》を私《わたし》は夕餐《ゆふめし》の後《のち》に通つて見た。其処《そこ》が此《この》田舎町の大通《おほどほり》で――矢張《やはり》狭かつた――西洋小間物|店《
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