《わたし》の前に立つた。私《わたし》は線香と花とを買つた。
 一歩毎《ひとあしごと》に老爺《おやぢ》の持つた鍵がぢやらぢやらと鳴る。
 今度は正面から入つた。
 街道の傍《そば》に『官軍改修墓地』といふ木標《もくひやう》が立つてゐたが、風雨に曝《さら》されて字も読めぬ位《くらゐ》に古びてゐた。石の橋の上には、刈つた藺《ゐ》が並べて干してあつて、それから墓地の柵までの間《あひだ》は、笠のやうな老松《らうしよう》が両側から蔽《おほ》ひかゝつた。
 老爺《おやぢ》は門の鍵を開けた。
 幼い頃見た写真がすぐ思出《おもひだ》された。けれど想像とは丸《まる》で違つてゐた。野梅《やばい》の若木が二三|本《ぼん》処々《ところ/\》に立つて居《ゐ》るばかり、他《た》に樹木とてはないので、何《なん》だか墓のやうな気がしなかつた。夏の日に照《てら》されて、墓地の土は白く乾いて、どんな微《かす》かな風にもすぐ埃《ちり》が立ちさうである。私《わたし》の記憶も矢張《やはり》この白い土のやうに乾いて居《ゐ》た。

 数多い墓の中《うち》から、漸《やうや》く父の墓をさがし出して其《その》前に立つた。墓は小さな石で、表面に姓名、裏に戦死した年月日《ねんぐわつひ》と場所とが刻んであつた。
『分りましたかな』
 一緒に探して呉《く》れた老爺《おやぢ》は私《わたし》の傍《そば》に遣《や》つて来た。
『お参りに来る人がそれでも随分あるだらうねえ?』かう私《わたし》が訊《き》くと、
『え、時には御座《ござ》いますがな。たんとはありません。皆《みん》な遠いで御座《ござ》いますから……。』
『お前さん、余程《よほど》前から、番人をして居《ゐ》るのかね?』
『お墓が出来た時からかうして番人を致して居《を》ります』
 と爺《おやぢ》は言つて、『何《ど》うも一人で何《なに》も彼《か》も致すで、草がぢきに生《は》えて困りますばい。二三日鎌さ入れねえとかうでがんすばい』と、傍《そば》に青くなつた草を指《ゆびさ》した。
 四月の十四日――父の命日には、年々床の間に父の名の入つた石摺《いしずり》の大きな幅《ふく》をかけて、机の上に位牌と御膳《おぜん》を据ゑて、お祭をした。其《その》頃いつも八重さくらが盛《さか》りで、兄はその爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]《らんまん》たる花に山吹《やまぶき》を二枝《ふたえだ》ほど交《
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