てあった。ここの主僧がまだ東京にいるころは、ことにこの人の世話になって、原稿を買ってもらったり、その家に置いてもらったりした。
「もう今日は行かれませんな」
「そう、馬車はありませんしな、車じゃたいへんですし……それに汽車に乗っても、あっちへ着いてから困るでしょう」
 主僧は考えて、
「明日《あした》にしましょうかな」
「明日でいいなら――明日朝の馬車で久喜《くき》まで行って、奥羽線《おううせん》の二番に乗るほうがいいですな」
「行田から吹上《ふきあげ》のほうが便利じゃないでしょうか」
「いや、久喜のほうが便利です」
 と荻生君は言った。
 主僧はそれと心を定めたらしく、やがて、「人間というものはいつ死ぬかわかりませんな」と慨嘆《がいたん》して、
「ちょっと病気で病院にはいってるということは聞きましたけれど、死ぬなどとは夢にも思わなかったですよ。先生など幸福ではあるし、得意でもあるし、これからますます自分の懐抱《かいほう》を実行していかれる身なんですから」こう言って、自分の田舎寺に隠れた心の動機を考えて、主僧は黯然《あんぜん》とした。
「世の中は蝸牛角上《かぎゅうかくじょう》の争闘――
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