家を出なければ授業時間に間に合わぬと知ってはいるが、どうも帰るのがいやで――親しい友人と物語る楽しみを捨ててろくろく話す人もないところに帰って行くのがいやで、われしらず時間を過ごしてしまった。
 夕飯《ゆうめし》を食ってから、湯に出かけたが、帰りにふたたび郁治を訪ねて、あきらかな夕暮れの野を散歩した。
 城址《しろあと》はちょっと見てはそれと思えぬくらい昔のさまを失っていた。牛乳屋の小さい牧場には牛が五六頭モーモーと声を立てて鳴いていて、それに接した青縞機業会社の細長い建物からは、機《はた》を織る音にまじって女工のうたう声がはっきり聞こえる。夕日は昔大手の門のあったというあたりから、年々田に埋め立てられて、里川《さとがわ》のように細くなった沼に画のようにあきらかに照りわたった。新たに芽を出した蘆荻《あし》や茅《かや》や蒲《がま》や、それにさびた水がいっぱいに満ちて、あるところは暗くあるところは明るかった。沼にかかった板橋を渡ると、細い田圃路《たんぼみち》がうねうねと野に通じて、車をひいて来る百姓の顔は夕日に赤くいろどられて見えた。
 麦畑と桑畠、その間を縫うようにして二人は歩いた。話は
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