た溝《みぞ》を前にした荒壁の崩れかけた家もあった。鶏の声がところどころにのどかに聞こえる。街道におろし菓子屋が荷を下《おろ》していると、髪をぼうぼうさせた村の駄菓子屋のかみさんが、帯もしめずに出て来て、豆菓子や鉄砲玉をあれのこれのと言って入用だけ置かせている。
 新郷《しんごう》へのわかれ路が近くなったころ、親子はこういう話をした。
「今度はいつ来るな、お前」
「この次の土曜日には帰る」
「それまでに少しはどうかならんか」
「どうだかわからんけれど、月末だから少しはくれるだろうと思うがね」
「少しでも手伝ってもらうと助かるがな」
 清三は返事をしなかった。
 やがて別れるところに来た。新郷へはこれから一田圃《ひとたんぼ》越せば行ける。
「それじゃ気をつけてな」
「ああ」
 そこには庚申塚《こうしんづか》が立っていた。禿《はげ》頭の父親が猫背《ねこぜ》になって歩いて行くのと、茶色の帽子に白縞《しろじま》の袴《はかま》をつけた清三の姿とは、長い間野の道に見えていた。

       九

 その夜は役場にとまった。校長を訪ねたが不在であった。かれは日記帳に、「あゝわれつひに堪《た》へんや、
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