えられているのである。
 だまされさえしなければ、今でも相応《そうおう》な呉服屋の店を持っていられたのである。こう思うと、何も知らぬ母親に対する同情とともに、正業でない職業とはいいながら、こうした雨の降る日に、わずか五十銭か一円の銭で、一里もあるところに出かけて行く老いた父親を気の毒に思った。
 やがて鉄瓶《てつびん》がチンチン音を立て始めた。
 母親は古い茶箪笥《ちゃだんす》から茶のはいった罐《かん》と急須《きゅうす》とを取った。茶はもう粉《こ》になっていた。火鉢の抽斗《ひきだ》しの紙袋には塩煎餅《しおせんべい》が二枚しか残っていなかった。
 清三は夕暮れ近くまで、母親の裁縫《しごと》するかたわらの暗い窓の下で、熊谷《くまがや》にいる同窓の友に手紙を書いたり、新聞を読んだりしていた。友の手紙には恋のことやら詩のことやら明星《みょうじょう》派の歌のことやら我ながら若々しいと思うようなことを罫紙《けいし》に二枚も三枚も書いた。
 四時ごろから雨ははれた。路はまだグシャグシャしている。父親が不成功で帰って来たので、家庭の空気がなんとなく重々しく、親子三人黙って夕飯を食《く》っていると、「ご
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