たえ?」
「来週から出ることになった」
「それはよかったねえ」
 喜びの色が母親の顔にのぼった。
 それからそれへと話は続いた。校長さんはどういう人だの、やさしそうな人かどうかの、弥勒《みろく》という所はどんなところかの、下宿するよいところがあったかのと、いろいろなことを持ち出して母親は聞いた。清三はいちいちそれを話して聞かせた。
「お父《とっ》さんは?」
 しばらくして、清三がこうきいた。
「ちょっと下忍《しもおし》まで行ッて来るッて出かけて行ったよ。どうしても少しお銭《あし》をこしらえて来なくってはッてね……。雨が降るから、明日《あした》にしたらいいだろうと言ったんだけれど……」
 清三は黙ってしまった。貧しい自分の家のことがいまさらに頭脳《あたま》にくり返される。父親の働きのないことがはがゆいようにも思われるが、いっぽうにはまた、好人物《こうじんぶつ》で、善人で、人にだまされやすい弱い鈍い性質を持っていながら、贋物《にせもの》の書画《しょが》を人にはめることを職業にしているということにはなはだしく不快を感じた。正直なかれの心には、父親の職業は人間のすべき正業ではないようにつねに考
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