あしかが》で呉服屋をしていた。財産もかなり豊かであった。七歳の時没落して熊谷《くまがや》に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。母親の泣いたのを不思議に思ったのをも覚えている。今は――兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家庭の関係についても、他の学友のような自由なことはいっていられない。人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖《はっこう》の運命を得てきたのである。こう思うと、例のセンチメンタルな感情が激《はげ》しく胸に迫《せま》ってきて、涙がおのずと押すように出る。
 近い森や道や畠は名残りなく暮れても、遠い山々の頂《いただき》はまだ明るかった。浅間の煙が刷毛《はけ》ではいたように夕焼けの空になびいて、その末がぼかしたように広くひろがり渡った。蛙《かわず》の声がそこにもここにも聞こえ出した。
 ところどころの農家に灯《ともしび》がとぼって、唄《うた》をうたって行く声がどこか遠くで聞こえる。
 かれはじっと立ちつくしていた。
 ふと前の榛《はん》の並木のあたりに、人の来る気勢《けはい》がしたと思うと、華《はな》やかに笑う声がして
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