。勘定《かんじょう》は蟇口《がまぐち》から銀貨や銅貨をじゃらつかせながら小畑がした。可愛い娘《おんな》の子が釣銭と蕎麦湯と楊枝《ようじ》とを持って来た。
 その日の午後四時過ぎには、清三は行田と羽生の間の田舎道を弥勒《みろく》へと歩いていた。野は日に輝いて、向こうの村の若葉は美しくあざやかに光った。けれど心は寂しく暗かった。かれは希望に充《みた》されて通った熊谷街道と、さびしい心を抱いて帰って行く弥勒街道とをくらべてみた。若い元気のいい友だちがうらやましかった。

       十四

 六月一日、今日|成願寺《じょうがんじ》に移る。こう日記にかれは書いた。荻生《おぎゅう》君が主僧といろいろ打ち合わせをしてくれたので、話は容易にまとまった。無人《ぶにん》で食事の世話まではしてあげることはできないが、家《うち》にあるもので入り用なものはなんでもおつかいなさい。こう言って、主僧は机、火鉢、座蒲団、茶器などを貸してくれた。
 本堂の右と左に六畳の間があった。右の室《へや》は日が当たって冬はいいが、夏は暑くってしかたがない。で、左の間を借りることにする。和尚《おしょう》さんは障子の合うのをあっちこっちからはずしてきてはめてくれる。かみさんはバケツを廊下に持ち出して畳を拭いてくれる。机を真中にすえて、持ってきた書箱《ほんばこ》をわきに置いて、角火鉢に茶器を揃《そろ》えると、それでりっぱな心地のよい書斎ができた。荻生君はちょうど郵便局が閑《ひま》なので、同僚にあとを頼んでやってきて、庭に生《は》えた草などをむしった。清三が学校から退《ひ》けて帰って来た時には、もうあたりはきれいになって、主僧と荻生君とは茶器をまんなかに、さも室の明るくなったのを楽しむというふうに笑って話をしていた。
「これはきれいになりましたな、まるで別の室のようになりましたな」
 こう言って清三はにこにこした。
「荻生さんが草を取ってくれたんですよ」
 主僧が笑いながら言うと、
「荻生君が? それは気の毒でしたねえ」
「いや、草を取って、庭をきれいにするということは趣味があるものですよ」と荻生君は言った。
 そこに餅菓子が竹の皮にはいったまま出してあった。これも荻生君のお土産《みやげ》である。清三は、「これはご馳走《ちそう》ですな」と言いながら、一つ、二つ、三つまでつまんで、むしゃむしゃと食った。弁当腹《べんとうばら》で、長い路を歩いて来たので、少なからず飢《うえ》を覚えていたのである。
 その日の晩餐《ばんさん》は寺で調理してくれた。里芋と筍《たけのこ》の煮付け、汁には、たけたウドが入れられてあった。主僧は自分の分もここに持って来させて、ビールを二本|奢《おご》って、三人して団欒《だんらん》して食った。文学の話、人生問題の話、近所の話、小学校の話、主僧のお得意の禅の話も出た。庭に近く柱によった主僧の顔が白く夕暮れの空気に見えた。
 長い廊下に小僧が急ぎ足でこっちにやってくるのが見えたが、やがてはいって来て、一通の電報を主僧に渡した。
 急いで封を切って読み終わった主僧の顔色は変わった。
「大島孤月《おおしまこげつ》が死んだ!」
「孤月さんが――」
 二人もおどろきの目をみはった。
 大島孤月といえば、文学好きの人はたいてい知っていた。某書肆《ぼうしょし》の女婿《じょせい》で、創作家としてよりも書肆の支配人としての勢力の大きな人であった。昨年の秋|泰西漫遊《たいせいまんゆう》に出かけて、一月ほど前に帰朝した。送別会と歓迎会、その記事はいつも新聞紙上をにぎわした。雑誌にもいろいろなことが書いてあった。ここの主僧がまだ東京にいるころは、ことにこの人の世話になって、原稿を買ってもらったり、その家に置いてもらったりした。
「もう今日は行かれませんな」
「そう、馬車はありませんしな、車じゃたいへんですし……それに汽車に乗っても、あっちへ着いてから困るでしょう」
 主僧は考えて、
「明日《あした》にしましょうかな」
「明日でいいなら――明日朝の馬車で久喜《くき》まで行って、奥羽線《おううせん》の二番に乗るほうがいいですな」
「行田から吹上《ふきあげ》のほうが便利じゃないでしょうか」
「いや、久喜のほうが便利です」
 と荻生君は言った。
 主僧はそれと心を定めたらしく、やがて、「人間というものはいつ死ぬかわかりませんな」と慨嘆《がいたん》して、
「ちょっと病気で病院にはいってるということは聞きましたけれど、死ぬなどとは夢にも思わなかったですよ。先生など幸福ではあるし、得意でもあるし、これからますます自分の懐抱《かいほう》を実行していかれる身なんですから」こう言って、自分の田舎寺に隠れた心の動機を考えて、主僧は黯然《あんぜん》とした。
「世の中は蝸牛角上《かぎゅうかくじょう》の争闘――
前へ 次へ
全88ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング