私は東京にいるころには、つくづくそれがいやになったんですよ。人の弱点を利用したり、朋党《ほうとう》を作って人をおとしいれたり、一歩でも人の先に出よう出ようとのみあくせくしている。実にあさましく感じたですよ。世の中は好《い》いが好いじゃない、悪いが悪いじゃない、幸福が幸福じゃない。どんな人でもやっぱり人間は人間で、それ相応の安慰《あんい》と幸福とはある。それに価値もある。何も名誉をおって、一生をあくせく暮らすには当たらない。それよりも、人間としての理想のライフを送るほうがどれほど人間としてえらいかしれない。どんなに零落《れいらく》して死んでもそのほうが意味がありますからなア」
「ほんとうにそうですとも」
清三は主僧の言葉に引き込まれるような気がした。
「不幸福《ふしあわせ》な人だった!」
と主僧は思わず感激して独《ひと》り言《ごと》のように言った。得意なる地位を知ってるだけそれだけ、その背景が悲しかった。平生《へいぜい》戯談《じょうだん》ばかり言う男で、軽い皮肉をつねに人に浴びせかけた。まだ三十四五であったが、世の中の辛酸《しんさん》をなめつくして、その圭角《けいかく》がなくなって、心持ちは四十近い人のようであった。養子としての淋しい心の煩悶《はんもん》をも思いやった。「なんのかのと言って、誰もみな死んでしまうんですな……それを考えると、ほんとうにつまらない」主僧は深く動かされたような調子で言った。
こんなことでその夜は一室の空気がなんとなく低い悲哀につつまれた。やがて主僧は庫裡《くり》に引き上げたが、清三と荻生君との話も理に落ちてしまって、いつものように快活に語ることができなかった。
二人は暗い洋燈《らんぷ》に対して久しく黙した。
翌日主僧は早く出かけた。
清三は大島孤月の病死と葬儀とについての記事をそれから毎日々々新聞紙上で見た。かれはその度《たび》ごとにいろいろな思いにうたれた。その人の作には感心してはおらぬが、出版者としての勢力が文壇に及ぼす関係などを想像してみたり、自分の崇拝《すうはい》している明星一派の不遇などをそれにくらべて考えてみたりした。時には、「とにかく不幸福《ふしあわせ》といっても死んでこうして新聞に書かれれば光栄である」などと考えて、音も香《か》もなく生まれて活《い》きて死んでいく普通の多数の人々の上をも思いやった。その間に雨が降ったり風が吹いたりした。雨の降る日には本堂の四面の新緑がことにあざやかに見えて、庫裡《くり》の高い屋根にかけたトタンの樋《とい》からビショビショ雨滴《あまだ》れの落ちるのを見た。風の吹く日には、裏の林がざわざわ鳴って、なんだか海近くにでも住んでいるように思われた。弁当は朝に晩に、馬車継立所《ばしゃつぎたてしょ》のそばの米ずしという小さな飲食店から赤いメリンスの帯をしめた十三四の娘が運んで来た。行田の家からもやがて夜具や机や書箱《ほんばこ》などをとどけてよこした。
かれは寺から町の大通《おおどお》りに真直《まっすぐ》に出て、うどんひもかわと障子に書いた汚ない飲食店の角《かど》を裏通りにはいって、細い煙筒《えんとつ》に白い薄い煙のあがる碓氷社《うすいしゃ》分工場《ぶんこうじょう》の養蚕所《ようさんじょ》や、怪しげな軒燈《がすとう》の出ている料理屋の前などを通って、それから用水の橋のたもとへといつも出る。時には大越《おおごえ》に通う馬車がおりよくそこにいて、安くまけて乗せてもらって行くことなどもあった。
五六日して主僧は東京から帰って来た。葬儀の模様は新聞で見て知っていたが、くわしく聞いて、さらにあざやかにそのさまを眼《め》の前《まえ》に見るような気がした。文壇の大家小家はことごとく雨をついてその葬式について行ったという。雨がザンザン降って、新緑の中に造花生花のさまざまの色彩がさながら絵のような対照《コントラスト》をなしたという。ことに、寺の本堂が狭かったので、中にはいれなかった人々は、蛇《じゃ》の目《め》傘《がさ》や絹張りの蝙蝠傘《こうもりがさ》を雨滴《あまだ》れのビショビショ落ちる庇《ひさし》のところにさしかけて立っていた。読経《どきょう》は長かった。それがすむと形のごとき焼香があって、やがて棺は裏の墓地へと運ばれる。墓地への路には新しい筵《むしろ》が敷きつめられて、そこを白無垢《しろむく》や羽織袴が雨にぬれて往《い》ったり来たりする。小説の某大家は柱によって、悲しそうな顔をしている。生前最も親しかった某画家は羽織を雨にめちゃめちゃにして、あっちこっちと周旋《しゅうせん》して歩いている。「君、実際、感に打たれましたよ。苦労をしぬいて、ようやく得意の境遇になって、これから多少志もとげようという時に当たって何が来たかと思うと、死!」こう若い和尚《おしょう》さんは話した。
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