込むには早いぜ!」
「少しは何か調べたか」
「なんだか顔色が悪いぜ!」
 熊谷にくると、こうした活気ある言葉をあっちこっちから浴びせかけられる。いきいきした友だちの顔色には中学校時代の面影がまだ残っていて、硝子窓《がらすまど》の下や運動場や湯呑場《ゆのみじょう》などで話し合った符牒《ふちょう》や言葉がたえず出る。
 また次のような話もした。
「Lはどうした」
「まだいる! そうかまだいるか」
「仙骨《せんこつ》は先生に熱中しているが、実におかしくって話にならん」
「先生、このごろ、鬚《ひげ》など生《は》やして、ステッキなどついて歩いているナ」
「杉はすっかり色男になったねえ、君」
 かたわらで聞いてはちょっとわからぬような話のしかたで、それでぐんぐん話はわかっていく。
 熊谷の町が行田、羽生にくらべてにぎやかでもあり、商業も盛んであると同じように、ここには同窓の友で小学校の教師などになるものはまれであった。角帯をしめて、老舗《しにせ》の若旦那になってしまうもののほかは、多くはほかの高等学校の入学試験の準備に忙しかった。活気は若い人々の上に満ちていた。これに引きくらべて、清三は自分の意気地のないのをつねに感じた。熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒《みろく》とだんだん活気がなくなっていくような気がして、帰りはいつもさびしい思いに包まれながらその長い街道を歩いた。
 それに人の種類も顔色も語り合う話もみな違った。同じ金儲《かねもう》けの話にしても、弥勒あたりでは田舎者の吝嗇《けち》くさいことを言っている。小学校の校長さんといえば、よほど立身したように思っている。また校長みずからも鼻を高くしてその地位に満足している。清三は熊谷で会う友だちと行田で語る人々と弥勒で顔を合わせる同僚とをくらべてみぬわけにはいかなかった。かれは今の境遇を考えて、理想が現実に触れてしだいに崩《くず》れていく一種のさびしさとわびしさとを痛切に感じた。
 ある日曜日の午前に、かれは小畑と桜井とつれだって、中学校に行ってみた。中学校は町のはずれにあった。二階造りの大きな建物で、木馬と金棒と鞦韆《ぶらんこ》とがあった。運動場には小倉《こくら》の詰襟《つめえり》の洋服を着た寄宿舎にいる生徒がところどころにちらほら歩いているばかり、どの教室もしんとしていた。湯呑所《ゆのみじょ》には例のむずかしい顔をした、かれらが「般若《はんにゃ》」という綽名《あだな》を奉《たてまつ》った小使がいた。舎監《しゃかん》のネイ将軍もいた。当直番に当たった数学の教師もいた。二階の階段、長い廊下、教室の黒板、硝子窓から梢だけ見える梧桐《あおぎり》、一つとして追懐《ついかい》の伴わないものはなかった。かれらはその時分のことを語りながらあっちこっちと歩いた。
 当直室で一時間ほど話した。同級生のことを聞かれるままその知れる限りを三人は話した。東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師になったものが八人、ほかの五人は不明であった。三人は講堂に行ってオルガンを鳴らしたり、運動場に出てボールを投げてみたりした。
 別れる前に、三人は町の蕎麦屋《そばや》にはいった。いつもよく行く青柳庵《せいりゅうあん》という家である。奥の一間はこざっぱりした小庭に向かって、楓《もみじ》の若葉は人の顔を青く見せた。ざるに生玉子、銚子《ちょうし》を一本つけさせて、三人はさも楽しそうに飲食した。
「この間、小滝に会ったぜ!」小畑は清三の顔を見て、「先生、このごろなかなか流行《はや》るんだそうだ。土地の者では一番売れるんだろうよ。湯屋の路地を通ると、今、座敷に出るところかなんかで、にこにこしてやって来たッけ」
「林さんは? ッて聞かなかったか?」
 かたわらから桜井が笑いながら言った。
 清三も笑った。
「Yはどうしたねえ」
 清三は続いて聞いた。
「相変わらずご熱心さ」
「もうエンゲージができたのか」
「当人同士はできてるんだろうけれど、家では両方ともむずかしいという話だ」
「おもしろいことになったものだねえ」と清三は考えて、「YはいったいVのラヴァだったんだろう。それがそういうふうになるとは実際運命というものはわからんねえ」
「Vはどうしたえ」と桜井が小畑に聞く。
「先生、足利に行った」
「会社にでも出たのか」
「なんでも機業会社とかなんとかいうところに出るようになったんだそうだ」
 三人はお代わりの天ぷら蕎麦《そば》を命じた。
「Art の君はどうした?」
 小畑がきいた。
「浦和にいるよ」
「それは知ってるさ。どうしたッて言うのはそういう意味じゃないんだ」
「うむ、そうか――」と清三はうなずいて、「まだ、もとの通りさ」
「加藤も臆病者だからなア」
 と小畑も笑った。
 一本の酒で、三人の顔は赤くなった
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