やって来て、いい声で歌をうたったり、三絃《さみせん》をひいたりした。小畑《おばた》がそばにすわって「小滝は僕らの芸者だ。ナア小滝」などと言って、酔った顔をその前に押しつけるようにすると、「いやよ、小畑さん、貴郎《あなた》は昔から私をいじめるのねえ、覚えていてよ」と打つ真似《まね》をした。そのとき、「貴様は同級生の中で、誰が一番好きだ」という問題がゆくりなく出た。小学校時分の同級生がだいぶそのまわりにたかっていた。と、小滝は少しも躊躇《ちゅうちょ》の色を示《しめ》さずに、「それア誰だッてそうですわねえ、……むろん林さん!」と言った。小滝も酔っていた。喝采《かっさい》の声が嵐のように起こった。それからは、小畑や桜井や小島などに会うと、小滝の話がよく出る。しまいには「小滝君どうした。健在かね」などと書いた端書《はがき》を送ってよこした。「小滝」という渾名《あだな》をつけられてしまったのである。清三もまたおもしろ半分に、小滝を「しら滝」に改めて、それを別号にして、日記の上表紙に書いたり手紙に署《しょ》したりした。「歌妓《かぎ》しら滝の歌」という五七調四行五節の新体詩を作って、わざと小畑のところに書いてやったりした。
 時には清三もまじめに芸者というものを考えてみることもある。その時にはきっと自分と小滝とを引きつけて考えてみる。ロマンチックな一幕などを描いてみることもあった。時にはまた節操《みさお》も肉体もみずから守ることのできない芸者の薄命な生活を想像して同情の涙を流すことなどもあった。清三には芸者などのことはまだわからなかった。
 かれはまた熊谷から行田に移転した時のことをあきらかに記憶している。父親がよそから帰って来て、突然今夜引っ越しをするという。明日になすったらいいではありませんかと母親が言ったが、しかし昼間《ひるま》公然と移転して行かれぬわけがあった。熊谷における八年の生活は、すくなからざる借金をかれの家に残したばかりであった。父親は財布の銭《ぜに》――わずかに荷車二三台を頼む銭をちゃらちゃらと音させながら出て行くと、そのあとで母親と清三とは、近所に知れぬように二人きりで荷造りをした。長い行田街道には冬の月が照った。二台の車の影と親子四人の影とが淋しく黒く地上に印《いん》した。これが一家の零落した縮図《しゅくず》かと思うと、清三はたまらなく悲しかった。その夜行田の新居にたどり着いたのは、もうかれこれ十二時に近かった。燈光《あかり》もない暗い大和障子《やまとしょうじ》の前に立った時には、涙がホロホロとかれの頬をつたって流れた。
 けれどいかようにしても暮らして行かるる世の中である。それからもう四年は経過した。そのせまい行田の家も、住みなれてはさしていぶせくも思わなかった。かれはおりおり行田の今の家と熊谷の家と足利の家とを思ってみることがある。
 熊谷の家は今もある。老いた夫婦者が住まっている。よく行った松の湯は新しく普請《ふしん》をして見違えるようにりっぱになった。通りの荒物屋にはやはり愛嬌者《あいきょうもの》のかみさんがすわって客に接している。種物屋《たねものや》の娘は廂髪《ひさしがみ》などに結《ゆ》ってツンとすまして歩いて行く。薬種屋《やくしゅや》の隠居《いんきょ》は相変わらず禿《はげ》頭をふりたてて忰《せがれ》や小僧を叱っている。郵便局の為替《かわせ》受け口には、黒繻子《くろじゅす》とメリンスの腹合《はらあわ》せの帯をしめた女が為替の下渡《さげわた》しを待ちかねて、たたきを下駄でコトコトいわせている。そのそばにおなじみの白犬《しろ》が頭を地につけて眼を閉じて眠っている。郵便集配人がズックの行嚢《こうのう》をかついではいって来る。
 小畑は郡役所《ぐんやくしょ》に勤めている官吏の子息《むすこ》、小島は町で有名な大きな呉服屋の子息《むすこ》、桜井は行田の藩士で明治の初年にこの地に地所を買って移って来た金持ちの子息《むすこ》、そのほか造酒屋《ぞうしゅや》、米屋、紙屋、裁判所の判事などの子息《むすこ》たちに同窓の友がいくらもあった。そしてそれがたいていは小学校からのなじみなので、行田の友だちの群れよりもいっそうしたしいところがある。小畑の家は停車場の敷地に隣《とな》っていて、そこからは有名な熊谷堤の花が見える。桜井の家は蓮正寺《れんしょうじ》の近所で、お詣《まい》りの鰐口《わにぐち》の音が終日《しゅうじつ》聞こえる。清三は熊谷に行くと、きっとこの二人を訪問した。どちらの家《うち》でも家の人々とも懇意になって、わがままも言えば気のおけない言葉もつかう。食事時分には黙っていても膳を出してくれるし、夜遅くなれば友だちといっしょに一つ蒲団《ふとん》にくるまって寝た。
「どうした、いやにしょげてるじゃないか」
「どうかしたか」
「まだ老い
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