る。熊谷行田間の乗合馬車《のりあいばしゃ》、青縞屋の機回《はたまわ》りの荷車、そのころ流行《はや》った豪家の旦那の自転車、それに俥《くるま》にはさまざまの人が乗って通った。よぼよぼの老いた車夫が町に買い物に行った田舎の婆さんを二人乗りに乗せて重そうにひいて行くのもあれば、黒鴨仕立《くろかもしたて》のりっぱな車に町の医者らしい鬚《ひげ》の紳士が威勢よく乗って走らせて行くのもある。田植時分《たうえじぶん》には、雨がしょぼしょぼと降って、こねかえした田の泥濘《どろ》の中にうつむいた饅頭笠《まんじゅうがさ》がいくつとなく並んで見える。いい声でうたう田植唄も聞こえる。植え終わった田の緑は美しかった。田の畔《あぜ》、街道の両側の草の上には、おりおり植え残った苗の束などが捨ててあった。五月《さつき》晴れには白い繭《まゆ》が村の人家の軒下や屋根の上などに干してあるのをつねに見かけた。
 用水のそばに一軒涼しそうな休《やす》み茶屋《ぢゃや》があった。楡《にれ》の大きな木がまるでかぶさるように繁って、店には土地でできる甜瓜《まくわ》が手桶の水の中につけられてある。平たい半切《はんぎり》に心太《ところてん》も入れられてあった。暑い木陰のない路を歩いてきて、ここで汗になった詰襟《つめえり》の小倉《こくら》の夏服をぬいで、瓜を食《く》った時のうまかったことを清三は覚えている。その店の婆さんに娘が一人あって東京の赤坂に奉公に出ていることも知っている。
 関東平野を環《わ》のようにめぐった山々のながめ――そのながめの美しいのも、忘れられぬ印象の一つであった。秋の末、木の葉がどこからともなく街道をころがって通るころから、春の霞《かすみ》の薄く被衣《かつぎ》のようにかかる二三月のころまでの山々の美しさは特別であった。雪に光る日光の連山、羊の毛のように白く靡《なび》く浅間ヶ嶽の煙《けむり》、赤城《あかぎ》は近く、榛名《はるな》は遠く、足利《あしかが》付近の連山の複雑した襞《ひだ》には夕日が絵のように美しく光線をみなぎらした。行田から熊谷に通う中学生の群れはこの間を笑ったり戯《たわむ》れたり走ったりして帰ってきた。
 熊谷の町はやがてその瓦《かわら》屋根や煙突《えんとつ》や白壁造りの家などを広い野の末にあらわして来る。熊谷は行田とは比較にならぬほどにぎやかな町であった。家並みもそろっているし、富豪《かねもち》も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。汽車が停車場に着くごとに、行田地方と妻沼《めぬま》地方に行く乗合馬車がてんでに客を待ちうけて、町の広い大通りに喇叭《らっぱ》の音をけたたましくみなぎらせてガラガラと通って行った。夜は商家に電気がついて、小間物屋、洋物店、呉服屋の店も晴々しく、料理店からは陽気な三味線の音がにぎやかに聞こえた。
 町は清三にとって第二の故郷である。八歳の時に足利を出て、通りの郵便局の前の小路《こうじ》の奥に一家はその落魄《らくはく》の身を落ちつけた。その小路はかれにとっていろいろな追憶《おもいで》がある。そこには郵便局の小使や走り使いに人に頼まれる日傭取《ひようと》りなどが住んでいた。山形あたりに生まれてそこここと流れ渡ってきても故郷の言葉が失せないという元気なお婆さんもあった。八歳から十七歳まで――小学校から中学の二年まで、かれは六畳、八畳、三畳のその小さい家に住んでいた。小学校は町の裏通りにあった。明神《みょうじん》の華表《とりい》から右にはいって、溝板《どぶいた》を踏《ふ》み鳴らす細い小路を通って、駄菓子屋の角《かど》を左に、それから少し行くと、向こうに大きな二階造りの建物と鞦韆《ぶらんこ》や木馬のある運動場が見えた。生徒の騒ぐ音がガヤガヤと聞こえた。
 校長の肥った顔、校長次席のむずかしい顔、体操の先生のにこにこした顔などが今もありありと眼に見える。卒業式に晴衣《はれぎ》を着飾ってくる女生徒の群れの中にもかれの好きな少女が三四人あった。紫の矢絣《やがすり》の衣服《きもの》に海老茶《えびちゃ》の袴《はかま》をはいてくる子が中でも一番眼に残っている。その子は町《まち》はずれの町から来た。農学校の校長の娘だということを聞いたことがある。清三が中学の一年にいる時一家は長野のほうに移転して行ってしまったので、そのあきらかな眸《ひとみ》を町のいずこにも見いだすことができなくなったが、それでも今も時々思い出すことがある。一人は芸者屋の娘で、今は小滝《こたき》といって、一昨年《おととし》一本になって、町でも流行妓《はやりっこ》のうちに数えられてある。通りで盛装《せいそう》した座敷姿《ざしきすがた》にでっくわすことなどあると、「失礼よ、林さん」などとあざやかに笑って挨拶して通って行く。中学卒業の祝いの宴会にも
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