に見せる。なるほど問題はむずかしかった。数学に長じた郁治にもできなかった。
 北川は漢学には長じていた。父親は藩《はん》でも屈指の漢学者で、漢詩などをよく作った。今は町の役場に出るようになったのでよしたが、三年前までは、町や屋敷の子弟に四書五経《ししょごきょう》の素読《そどく》を教えたものである。午後三時ごろから日没前までの間、蜂《はち》のうなるような声はつねにこの家の垣からもれた。そのころ美穂子は赤いメリンスの帯をしめて、髪をお下げに結《ゆ》って、門の前で近所の友だちと遊んだ。清三はその時分から美穂子の眼の美しいのを知っていた。
 郁治と清三が暇《いとま》をつげたのは夜の九時過ぎであった。若い人々は話がないといっても話がある。二人はそこを出てしばしの間|黙《だま》って歩いた。竹藪のガサガサする陰の道は暗かった。郁治の胸にも清三の胸にもこの際浦和の学校にいる美穂子のことがうかんだ。「あの時――郁治がそれと打ち明けた時、なぜ自分もラヴしているということを思いきって言わなかったろう」と清三は思った。けれど友の恋はまだ美穂子に通じてあるわけではない。恋された人の知らぬ前に恋した人の心を自分はその人から打ち明けられた。それだけかれは苦しかった。またそれだけかれはその問題につきつめていなかった。時には「まだ決まったというわけではない、ぶつかってみて、どうなることかわからない。……希望がすっかり破れてしまったというわけでもない……」などと思うこともある。友のために犠牲になるという気はむろんある。友の恋の成らんことを望む念もある。かれの性質からいっても、家庭の事情からいっても、現在の恋の状態からいっても、はげしく熱するにはまだだいぶ距離もあり余裕もあった。
 しかしその夜は二人とも不思議に胸がおどっていた。黙って歩いていても、その心はいろいろなことを語っていた。野に出ようとすると、昨日の雨に路の悪くなっているところがあった。低い駒下駄はズブズブはいった。
「悪い路《みち》だね」
 二人は互いにこう言いあった。しかし心では二人とも美穂子のことを考えていた。
 郁治にしては、女に対する煩悶《はんもん》、それを残すところなくこの友に語りたいと思った。打ち明けて話したならいくらかこの胸が静まるだろうとも思った。しかしなぜかそれを打ち明けて語る気にはならなかった。
 二人はやっぱり黙って歩いた。
 城址《しろあと》の森が黒く見える。沼がところどころ闇の夜の星に光った。蘆《あし》や蒲《がま》がガサガサと夜風に動く。町の灯《あかり》がそこにもここにも見える。
 公園から町にはいった。もうそのころは二人は黙っていなかった。郁治は低い声で、得意の詩吟《しぎん》を始めた。心の感激《かんげき》の余波がそれにも残って聞かれる。別れの道の角《かど》に来ても、かれらはなんだかこのまま別れるのが物足らなかった。「僕の家に寄って茶でものんで行かんか」清三がこう誘うと、郁治はついて来た。
 清三の母親は裁物板《たちものいた》に向かってまだせっせっと賃仕事をしていた。茶を入れてもらってまた一時間ぐらい話した。語っても語ってもつきないのは若い人々の思いであった。十二時が鳴って、郁治が思いきって帰って行くのを清三はまた湯屋の角《かど》まで送る。町の大通りはもうしんとしていた。
 翌日は母も清三も寝過《ねす》ごしてしまった。時計は七時を過ぎていた。清三はあわてて茶漬《ちゃづけ》をかっ込んで出かけた。いくら急いでも四里の長い長い路、弥勒《みろく》に着いたころはもう十時をよほど過ぎた。学校の硝子《がらす》窓には朝日がすでに長《た》けて、校長の修身を教える声が高くあきらかにあたりに聞こえる。急いで行ってみると、受持ちの組では生徒がガヤガヤと騒いでいた。

       十三

 熊谷町《くまがやまち》にもかれの同窓の友はかなりにある。小畑《おばた》というのと、桜井というのと、小島というのと――ことに小畑とはかれも郁治も人並みすぐれて交情《なか》がよかった。卒業して会われなくなってからは毎日のように互いに手紙の往復をして、戯談《じょうだん》を言ったり議論をしたりした。月に一二度は清三はきっと出かけた。
 行田町から熊谷町まで二里半、その路はきれいな豊富な水で満たされた用水の縁に沿ってはしった。田圃《たんぼ》ごとに村があり、一村ごとに田圃が開けるというふうで、夏の日には家の前の広場で麦を打っている百姓家や、南瓜《とうなす》のみごとに熟している畑や、豪農の白壁《しらかべ》の土蔵などが続いた。秋の晴れた日には、田圃から村に稲を満載した車がきしって、黄《き》いろく熟した田には、頬《ほお》かむりをした田舎娘が、鎌《かま》の手をとめて街道を通って行く旅人の群れをながめた。その街道にはいろいろなものが通
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