蚕などをやって暮らしているものもある。金貸しなどをしているものもあった。
士族屋敷の中での金持ちの家が一軒路《いっけんみち》のほとりにあった。珊瑚樹《さんごじゅ》の垣は茂って、はっきりと中は見えないが、それでも白壁の土蔵と棟《むね》の高い家屋とはわかった。門から中を見ると、りっぱな玄関があって、小屋のそばに鶏《とり》が餌をひろっている。
二人はその垣に添って歩いた。
垣がつきると、水のみちた幅のせまい川が気持ちよく流れている。岸には楊《やなぎ》がその葉を水面にひたして漣《さざなみ》をつくっている。細い板橋が川の折《お》れ曲《ま》がったところにかかっている。
美穂子の家はそこから近かった。
「行ってみようか。北川は今日はいるだろう」
清三はこう言って友を誘った。
その家は大きな田舎道をへだててひろい野に向かっていた。古びた黒い門があった。やっぱり廂《ひさし》の低い藁葺《わらぶき》の家で、土台がいくらか曲がっている。庭には松だの、檜《ひのき》だの、椿だのが茂っていた。今年の一月から三月にかけて、若い人々はよくこの家に歌留多牌《うたがるた》をとりにきたものである。美穂子の姉の伊与子《いよこ》、妹の貞子、それに国府《こくぶ》という人の妹に友子といって美しい人がいた。それらの少女連《おとめれん》と、郁治や清三や石川や沢田や美穂子の兄の北川などの若い人々が八畳の間にいっぱいになって、竹筒台《たけづつだい》の五分心の洋燈《らんぷ》の光の下に頭を並べて、夢中になって歌留多牌を取ると、そばには半白《はんぱく》の、品のいい、桑名訛《くわななまり》のある美穂子の母親が眼鏡をかけて、高くとおった声で若い人々のためにあきずに歌留多牌《うたがるた》を読んでくれた。茶の時には蜜柑《みかん》と五目飯《ごもくめし》の生薑《しょうが》とが一座の眼をあざやかにした。帰りはいつも十一時を過ぎていた。さびしい士族屋敷の竹藪《たけやぶ》の陰の道を若い男と女とは笑いさざめいて帰った。
北川は湯に行ってるすであった。「まア、よくいらっしゃいましたな……今、もうじき帰って参りますから……」母親はこう言って、にこにこして二人を迎えた。郁治はその笑顔に美穂子の笑顔を思い出した。声もよく似ている。
二人は庭に面した北川の書斎に通された。父親はどこに行ったか姿は見えなかった。
母親はしばし二人の相手をした。
「林さんは弥勒《みろく》のほうにお出になりましたッてな、まア結構でしたな……母《おっか》さん、さぞおよろこびでしたろうな」
こんなことを言った。
浦和にいる美穂子のうわさも出た。
「女がそんなことをしたッてしかたがないッて父親《ちち》は言いますけれどもな……当人がなかなか言うことを聞きませんでな……どうせ女のすることだから、ろくなことはできんのは知れてるですけど……」
「でもお変わりはないでしょう」
清三がこうきくと、
「え、もう……お転婆《てんば》ばかりしているそうでな」と母親は笑った。
すぐ言葉をついで、今度は郁治に、
「雪さんどうしてござるな」
「相変わらずぶらぶらしています」
「ちと、遊びにおつかわし。貞も退屈しておりますで……」
それこれするうちに、北川は湯から帰って来た。背の高い頬骨《ほおぼね》の出た男で、手織りの綿衣《わたいれ》に絣《かすり》の羽織を着ていた。話のさなかにけたたましく声をたてて笑う癖《くせ》がある。石川や清三などとは違って、文学に対してはあまり興味をもっていない。学校にいたころは、有名な運動家でベースボールなどにかけては級《クラス》の中でかれに匹敵するものはなかった。軍人志願で、卒業するとすぐ熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じてみたが、数学と英語とで失敗した。けれどあまり失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、しかるべき学校にはいって、十分な準備をすると言っている。
三人は胸襟《きょうきん》を開いて語り合った。けれどここで語る話と清三と郁治と話す話とは、大いに異なっていた。同じ親しさでも単に学友としての親しさであった。打ち解けて語ると言っても心の底を互いに披瀝《ひれき》するようなことはなかった。
ここでは、学校の話と将来の希望と受験の準備の話などが多く出た。北川は東京で受けた士官学校入学試験の話を二人にして聞かせた。「どうも試験に余裕がなくって困った。英語の書き取りなど一度しか読んでくれないんだから困るよ。それに試験の場所が大きく広すぎて、声が散ってよく聞きとれないんだから、ドマドマしてしまったよ。おまけに代数がばかにむずかしかった」
代数の二次方程式の問題をかれは手帳に書きつけてきた。それを机の抽斗《ひきだ》しやら押入れの中やら文庫の中やらあっちこっちとさがし回って、ようやくさがし出して二人
前へ
次へ
全88ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング