はその葉書を畳の上において、
「今度は貴嬢《あなた》も浦和にいらっしゃるんでしょう?」
「私などだめ」
 と雪子は笑った。
 その笑顔を清三は帰路《きろ》の闇の中に思い出した。相対していたのはわずかの間であった。その横顔を洋燈《らんぷ》が照らした。つねに似ず美しいと思った。ツンとすましたようなところがあるのをいつも不愉快に思っていたが、今宵はそれがかえって品があるかのように見えた。美穂子の顔が続いて眼前を通る。雪子の顔と美穂子の顔が重なって一つになる……。田の畦《あぜ》に蛙の声がして、町の病院の二階の灯《あかり》が窓からもれた。
      *      *     *     *     *
 町の裏に小さな寺があった。門をはいると、庫裡《くり》の藁葺《わらぶき》屋根と風雨《ふうう》にさらされた黒い窓障子が見えた。本堂の如来《にょらい》様は黒く光って、木魚《もくぎょ》が赤いメリンスの敷き物の上にのせてある。その裏にある墓地には、竹藪《たけやぶ》が隣の地面を仕切って、墓石にはなめくじのはったあとがありありと残っていた。その多い墓石の中に清三の弟の墓があった。弟は一昨年の春十五歳で死んだ。その病《やまい》は長かった。しだいにやせ衰えて顔は日に日に蒼白《あおじろ》くなった。医師《いしゃ》は診断書に肺結核と書いたが、父母《ちちはは》はそんな病気が家の血統にあるわけがないと言って、その医師の診断書を信じなかった。清三は時々その幼い弟のことを思い起こすことがある。死んだ時の悲哀《かなしみ》――それよりも、今生きていてくれたなら、話相手になって、どんなにうれしかったろうと思う。そのたびごとにかれは花をたずさえて墓参りをした。
 日曜日の朝、かれは樒《しきび》と山吹とを持って出かけた。庫裡《くり》で手桶《ておけ》を借りて、水をくんで、手ずから下げて裏へ回った。墓石はまだ建ててなく、風雨にさらされて黒くなった墓標が土饅頭《どまんじゅう》の上にさびしく立っている。父母も久しくお参りをせぬとみえて、花立ては割れていた。水を入れてもかいがなかった。
 清三の姿は久しくその前に立っていた。もう五月の新緑があたりをあざやかにして、老鶯《ろうおう》の声が竹藪《たけやぶ》の中に聞こえた。
 午後からは、印刷所に行ったり石川を訪問したりした。今日、弥勒《みろく》に帰らぬと、明日は少なくも朝の四時に家を出なければ授業時間に間に合わぬと知ってはいるが、どうも帰るのがいやで――親しい友人と物語る楽しみを捨ててろくろく話す人もないところに帰って行くのがいやで、われしらず時間を過ごしてしまった。
 夕飯《ゆうめし》を食ってから、湯に出かけたが、帰りにふたたび郁治を訪ねて、あきらかな夕暮れの野を散歩した。
 城址《しろあと》はちょっと見てはそれと思えぬくらい昔のさまを失っていた。牛乳屋の小さい牧場には牛が五六頭モーモーと声を立てて鳴いていて、それに接した青縞機業会社の細長い建物からは、機《はた》を織る音にまじって女工のうたう声がはっきり聞こえる。夕日は昔大手の門のあったというあたりから、年々田に埋め立てられて、里川《さとがわ》のように細くなった沼に画のようにあきらかに照りわたった。新たに芽を出した蘆荻《あし》や茅《かや》や蒲《がま》や、それにさびた水がいっぱいに満ちて、あるところは暗くあるところは明るかった。沼にかかった板橋を渡ると、細い田圃路《たんぼみち》がうねうねと野に通じて、車をひいて来る百姓の顔は夕日に赤くいろどられて見えた。
 麦畑と桑畠、その間を縫うようにして二人は歩いた。話は話と続いて容易につきようとしなかった。路はいつか士族屋敷のあたりに出た。
 家はところどころにあった。今日まで踏《ふ》みとどまっている士族は少なかった。昔は家から家へと続いたものであるが、今は晨《あした》の星のように畠と畠の間に一軒二軒と残っている。昔ふうの黒いシタミや白い壁や大きい栗の木や柿の木や井字形《せいじがた》の井戸側やまばらな生垣からは古い縁側《えんがわ》に低い廂《ひさし》、文人画を張った襖《ふすま》などもあきらかに見すかされた。夏の日などそこを通ると、垣に目の覚めるようなあかい薔薇《ばら》が咲いていることもあれば、新しい青簾《あおすだれ》が縁側にかけてあって、風鈴《ふうりん》が涼しげに鳴っていることもある。秋の霧の深い朝には、桔※[#「槹」の「白」に代えて「自」、69−12]《はねつるべ》のギイと鳴る音がして茘子《れいし》の黄いろいのが垣から口を開いている。琴の音などもおりおり聞こえた。
 この士族屋敷にはやはりもとの士族が世におくれて住んでいた。役場に出ているものもあれば、小学校の先生をしているものもある。財産があって無為《ぶい》に月日を送っているものもあれば、小規模の養
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