ますよ。六畳が」
 と友はふり返った。
「どうだろうねえ、君。あそこでおいてくれないかしらん」
「おいてくれるでしょう……この間まで巡査が借りて自炊をしていましたよ」
「もうその巡査はいないのかねえ」
「この間岩瀬へ転任になって行ったッて聞きました」
「一つ、君は懇意だから、頼んでみてくれませんか、自炊でもなんでもして、食事のほうは世話をかけずに、室《へや》さえ貸してもらえばいいが……」
「それはいい考えですねえ」と荻生君も賛成した。「ここからなら弥勒《みろく》にも二里に近いし……土曜日に行田へ帰るにもあまり遠くないし……」
「それにいろいろ教えてももらえるしねえ、君。弥勒あたりのくだらんところに下宿するよりいくらいいかしれない」
「ほんとうですねえ、私も話相手ができていい」
 荻生さんが来週の月曜日までに聞いておいてやるということに決まって、二人の友だちは分署の角《かど》で別れた。

       十二

 昨日の午後、月給が半月分渡った。清三の財布は銀貨や銅貨でガチャガチャしていた。古いとじの切れたよごれた財布! 今までこの財布にこんなに多く金のはいったことはなかった。それに、とにかく自分で働いて初めて取ったのだと思うと、なんとなく違った意味がある。母親が勝手に立とうとするのを呼びとめて、懐《ふところ》から財布を出して、かれはそこに紙幣と銀貨とを三円八十銭並べた。母親はさもさも喜ばしさにたえぬように息子《むすこ》の顔を見ていたが、「お前がこうして働いて取ってくれるようになったかと思うとほんとうにうれしい」としんから言った。息子は残りの半分はいま四五日たつとおりるはずであるということを語って、「どうも田舎《いなか》はそれだから困るよ。なんでも三度四度ぐらいにおりることもあるんだッて……けちけちしてるから」
 母親はその金をさも尊《とおと》そうに押しいただくまねをして、立って神棚《かみだな》に供《そな》えた。神棚には躑躅《つつじ》と山吹とが小さい花瓶に生けて上げられてあった。清三は後ろ向きになった母親の小さい丸髷《まるまげ》にこのごろ白髪《しらが》の多くなったのを見て、そのやさしい心のいかに生活の嵐に吹《ふ》きすさまれているかを考えて同情した。こればかりの金にすらこうして喜ぶのが親の心である。かれは中学からすぐ東京に出て行く友だちの噂《うわさ》を聞くたびにもやした羨望《せんぼう》の情と、こうした貧しい生活をしている親の慈愛に対する子の境遇《きょうぐう》とを考えずにはいられなかった。
 その土曜日は愉快に過ぎた。母親は自分で出かけて清三の好きな田舎|饅頭《まんじゅう》を買ってきて茶を煎《い》れてくれた。母親の小皺《こじわ》の多いにこにこした顔と息子の青白い弱々しい淋しい笑顔とは久しく長火鉢に相対してすわった。
 清三は来週から先方のつごうさえよければ羽生の成願寺《じょうがんじ》に下宿したいという話を持ち出して、若い学問のある方丈《ほうじょう》さんのことや、やさしい荻生君のことなどを話して聞かした。母親はそれまでには夜具や着物を洗濯してやりたい、それに袷《あわせ》を一枚こしらえたいなどと言った。父親の商売の不景気なことも続いて語った。清三のおさないころの富裕《ふゆう》な家庭の話も出た。
 夜は菓子を買って郁治の家に行った。雪子がにこにこと笑って迎えた。書斎での話は容易につきようともしなかった。同じことをくり返して語っても、それが同じこととは思えぬほど二人は親しかった。相対して互いに顔を見合わせているということが二人にとってこのうえもない愉快である。「行田文学」の話も出れば山形古城の話も出る。そこに郁治の父親がおりよく昨日帰ってきていたとて出てきて、「林さん、どうです、……学校のほうはうまくいきますか」などと言った。
「あそこの学校は軋轢《あつれき》がなくっていいでしょう。校長は二十七年の卒業生だが、わりあいにあれで話がわかっている男でしてな……村の受けもいいです」
 郡視学はこんなことを語って聞かせた。
 雪子が茶をさしにきた時、袂《たもと》から絵葉書を出して、「浦和の美穂子《みほこ》さんから今、私のところにこんな手紙が来てよ」と二人に示した。美穂子はかの Art の君である。雪子はまだ兄の心の秘密を知らなかった。
 絵葉書は女学世界についていた「初夏」という題で、新緑の陰にハイカラの女が細い流行の小傘《パラソール》をたずさえて立っていた。文句はべつに変わったこともなかった。
 ――雪子さんお変わりございませんか。ここに参ってからもう二月になりました。寄宿の生活――それはほかからは想像ができないくらいでございます、この春、ごいっしょに楽しく遊んだことなどをおりおり考えることが、ございますよ。ご無沙汰のおわびまでに……美穂子
 清三
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