の黒くなったのが見えた。書箱《ほんばこ》には洋書がいっぱい入れられてある。
 主僧はめずらしく調子づいて話した。今の文壇のふまじめと党閥の弊《へい》とを説《と》いて、「とても東京にいても勉強などはできない。田園生活などという声の聞こえるのももっともなことです」などと言った。風采はあがらぬが、言葉に一種の熱があって、若い人たちの胸をそそった。
 詩の話から小説の話、戯曲の話、それが容易につきようとはしなかった。明星派の詩歌の話も出た。主僧もやはり晶子の歌を賞揚《しょうよう》していた。「そうですとも、言葉などをあまりやかましく言う必要はないです、新しい思想を盛るにはやはり新しい文字の排列も必要ですとも……」こう言って林の説に同意した。
 ふと理想ということが話題にのぼったが、これが出ると主僧の顔はにわかに生々した色をつけてきた。主僧の早稲田に通って勉強した時代は紅葉《こうよう》露伴《ろはん》の時代であった。いわゆる「文学界」の感情派の人々とも往来した。ハイネの詩を愛読する大学生とも親しかった。麻布の曹洞宗《そうとうしゅう》の大学林から早稲田の自由な文学社会にはいったかれには、冬枯れの山から緑葉の野に出たような気がした。今ではそれがこうした生活に逆戻《ぎゃくもど》りしたくらいであるから、よほど鎮静《ちんせい》はしているが、それでもどうかすると昔の熱情がほとばしった。
「人間は理想がなくってはだめです。宗教のほうでもこの理想を非常に重く見ている。同化する、惑溺《わくでき》するということは理想がないからです。美しい恋を望む心、それはやはり理想ですからな、……普通の人間のように愛情に盲従したくないというところに力がある。それは仏も如是《にょぜ》一|心《しん》と言って霊肉の一致は説いていますが、どうせ自然の力には従わなければならないのはわかっていますが――そこに理想があって物にあこがれるところがあるのが人間として意味がある」
 持ち前の猫背をいよいよ猫背にして、蒼《あお》い顔にやや紅《くれない》を潮《ちょう》した熱心な主僧の態度と言葉とに清三はそのまま引き入れられるような気がした。その言葉はヒシヒシと胸にこたえた。かつて書籍で読み詩で読んだ思想と憧憬《しょうけい》、それはまだ空想であった。自己のまわりを見回しても、そんなことを口にするものは一人もなかった。養蚕《ようさん》の話でなければ金《かね》もうけの話、月給の多いすくないという話、世間の人は多くパンの話で生きている。理想などということを言い出すと、まだ世間を知らぬ乳臭児《にゅうしゅうじ》のように一言のもとに言い消される。
 主僧の言葉の中に、「成功不成功は人格の上になんの価値《かち》もない。人は多くそうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのがほんとうだと思う。乞食《こじき》にも立派な人格があるかもしれぬ」という意味があった。清三には自己の寂しい生活に対して非常に有力な慰藉者《いしゃしゃ》を得たように思われた。
 主客の間には陶器の手爐《てあぶ》りが二つ置かれて、菓子器には金米糖《こんぺいとう》[#ルビの「こんぺいとう」は底本では「こんいぺとう」]が入れられてあった。主僧とは正反対に体格のがっしりした色の黒い細君が注《つ》いで行った茶は冷たくなったまま黄《き》いろくにごっていた。
 一時間ののちには、二人の友だちは本堂から山門に通ずる長い舗石道《しきいしみち》を歩いていた。鐘楼《しょうろう》のそばに扉《とびら》を閉め切った不動堂があって、その高い縁《えん》では、額髪《ひたいがみ》を手拭いでまいた子守りが二三人遊んでいる。大きい銀杏《いちょう》の木が五六本、その幹と幹との間にこれから織ろうとする青縞《あおじま》のはたをかけて、二十五六の櫛《くし》巻きの細君が、しきりにそれを綜《へ》ていた。
「おもしろい人だねえ」
 清三は友をかえりみて言った。
「あれでなかなかいい人ですよ」
「僕はこんな田舎《いなか》にあんな人がいようとは思わなかった。田舎寺には惜しいッていう話は聞いていたが、ほんとうにそうだねえ。……」
「話|対手《あいて》がなくって困るッて言っていましたねえ」
「それはそうだろうねえ君、田舎には百姓や町人しかいやしないから」
 二人は山門を過ぎて、榛《はん》の木の並んだ道を街道に出た。街道の片側には汚ない溝《みぞ》があって、歩くと蛙《かえる》がいく疋《ひき》となくくさむらから水の中に飛び込んだ。水には黒い青い苔やら藻《も》やらが浮いていた。
 大和障子《やまとしょうじ》をなかばあけて、色の白い娘が横顔を見せて、青縞をチャンカラチャンカラ織っていた。
 その前を通る時、
「あのお寺の本堂に室《へや》がないだろうか?」
 こう清三はきいた。
「あり
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