科と習字とを教えた。
夜は宿直室に泊まった。宿直室は六畳で、その隣に小使|室《べや》があった。小使室には大きな囲爐裏《いろり》に火がかっかっと起こって、自在鍵《じざいかぎ》につるした鉄瓶《てつびん》はつねに煮えくりかえっていた。その向こうは流《なが》し元《もと》で、手桶のそばに茶碗や箸《はし》が置いてあった。棚には桶《おけ》と摺《す》り鉢《ばち》が伏せてあった。
その夜は大島訓導の宿直で、いろいろ打ち解けて話をした。かれは栃木県のもので、久しく宇都宮に教鞭《きょうべん》をとっていたが、一昨年埼玉県に来るようになって、ちょっと浦和にいて、それからここに赴任《ふにん》したという。家は大越在《おおごえざい》で、十五歳になる娘と九歳になる男の児《こ》がある。初めて会った時と打ち解けて話し合った時と感じはまるで違っていた。大島先生は一合の晩酌《ばんしゃく》に真赤になって、教育上の経験やら若い者のためになるような話やらを得意になってして聞かせた。
湯屋が通りにあった。細い煙筒《えんとつ》から煙《けむり》が青く黒くあがっているのを見たことがある。格子戸が男湯と女湯とにわかれて、はいるとそこに番台があった。湯気の白くいっぱいにこもった中に、箱洋燈《はこらんぷ》がボンヤリと暗くついていて、筧《とい》から落ちる上がり水の音が高く聞こえた。湯殿《ゆどの》は掃除が行き届かぬので、気味悪くヌラヌラと滑《すべ》る。清三は湯につかりながら、自分の新しい生活を思い浮かべた。
十
ある朝、授業を始める前に、清三は卓《テーブル》の前に立って、まじめな調子で生徒に言った。
「今日は皆さんにおめでたいことを一つお知らせ致します。皇太子妃殿下|節子姫《さだこひめ》には去る二十九日、新たに親王殿下をやすやすとご分娩《ぶんべん》あそばされました。これは皆さんも新聞紙上でお父様やお母様からすでにお聞きなされたことと存じます。皇室の御栄《おんさか》えあらせらるることは、われわれ国民にとってまことに喜びにたえませんことで、千秋万歳《せんしゅうばんざい》、皆さんの毎日お歌いになる君が代の唱歌にもさざれ石の巌《いわお》となりて苔《こけ》のむすまでと申してございます通りであります。しかるに、一昨日その親王殿下のご命名式がございまして、迪宮殿下《みちのみやでんか》裕仁親王《ひろひとしんのう》と名告《なの》らせらるるということがご発表になりました」
こう言って、かれは後ろ向きになって、チョオクを取って、黒板に迪宮裕仁親王という六字を大きく書いてみせた。
十一
「どうぞ一つ名誉賛成員になっていただきたいと存じます……。それに、何か原稿を。どんなに短いものでも結構ですから」
清三はこう言って、前にすわっている成願寺《じょうがんじ》の方丈《ほうじょう》さんの顔を見た。かねて聞いていたよりも風采のあがらぬ人だとかれは思った。新体詩、小説、その名は東京の文壇にもかなり聞こえている。清三はかつてその詩集を愛読したこともある。雑誌にのった小説を読んだこともある。一昨年ここの住職になるについても、やむを得ぬ先住《せんじゅう》からの縁故があったからで、羽生町《はにゅうまち》で屈指《くっし》な名刹《めいさつ》とはいいながら、こうした田舎寺には惜しいということもうわさにも聞いていた。それが、こうした背の低い小づくりな弱々しそうな人だとは夢にも思いがけなかった。
かれは土曜日の家への帰りがけに、羽生の郵便局に荻生秀之助《おぎゅうひでのすけ》を訪ねたが、秀之助がちょうど成願寺の山形古城を知っていると言うので、それでつれだって訪問した。
「それはおもしろいですな……それはおもしろいですな」
こうくり返して主僧は言った。「行田文学」についての話が三人の間に語られた。
「むろん、ご尽力しましょうとも……何か、まア、初めには詩でもあげましょう。東京の原にもそう言ってやりましょう……」
主僧はこう言って軽く挨拶した。
「どうぞなにぶん……」
清三は頼んだ。
「荻生君もお仲間ですか」
「いいえ、私には……文学などわかりゃしませんから」と荻生さんはどこか町家の子息《むすこ》といったようなふうで笑って頭をかいた。中学にいるころから、石川や加藤や清三などとは違って、文学だの宗教だのということにはあまりたずさわらなかった。したがって空想的なところはなかった。中学を出るとすぐ、前から手伝っていた郵便局に勤めて、不平も不満足もなく世の中に出て行った。
主僧の室は十畳の一|間《ま》で、天井は高かった。前には伽羅《きゃら》や松や躑躅《つつじ》や木犀《もくせい》などの点綴《てんてつ》された庭がひろげられてあって、それに接して、本堂に通ずる廊下が長く続いた。瓦屋根と本堂の離れの六畳の障子
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