知録《こうかんいちろく》、史記、五経、唐宋八家本《とうそうはっかぶん》などと書いた白い紙がそこに張られてあった、三尺の半床《はんどこ》の草雲《そううん》の蘭の幅《ふく》のかかっているのが洋燈《らんぷ》の遠い光におぼろげに見える。洋燈《らんぷ》の載《の》った朴《ほお》の大きな机の上には、明星、文芸倶楽部、万葉集、一葉全集などが乱雑に散らばって置かれてある。
 一年も会わなかったようにして、二人は熱心に話した。いろいろな話が絶え間なく二人の口から出る。
「君はどう決《き》まった?」
 しばらくして清三がたずねた。
「来年の春、高等|師範《しはん》を受けてみることにした。それまでは、ただおってもしかたがないからここの学校に教員に出ていて、そして勉強しようとおもう……」
「熊谷《くまがや》の小畑《おばた》からもそう言って来たよ。やっぱり高師を受けてみるッて」
「そう、君のところにも言って来たかえ、僕のところにも言って来たよ」
「小島や杉谷はもう東京に行ったッてねえ」
「そう書いてあったね」
「どこにはいるつもりだろう?」
「小島は第一を志願するらしい」
「杉谷は?」
「先生はどうするんだか……どうせ、先生は学費になんか困らんのだから、どうでも好きにできるだろう」
「この町からも東京に行くものはあるかね?」
「そう」と郁治は考えて「佐藤は行くようなことを言っていたよ」
「どういう方面に?」
「工業学校にはいるつもりらしい」
 同窓に関する話がつきずに出た。清三の身にしては、将来の方針を定めて、てんでに出たい方面に出て行く友だちがこのうえもなくうらやましかった。中学校にいるうちから、卒業してあとの境遇をあらかじめ想像せぬでもなかったが、その時はまたその時で、思わぬ運が思わぬところから向いて来ないとも限らないと、しいて心を安んじていた。けれどそれは空想であった。家庭の餓《うえ》は日に日にその身を実際生活に近づけて行った。
 かれはまた母親から優《やさ》しい温かい血をうけついでいた。幼い時から小波《さざなみ》のおじさんのお伽噺《とぎばなし》を読み、小説や歌や俳句に若い思いをわかしていた。体《からだ》の発達するにつれて、心は燃えたり冷えたりした。町の若い娘たちの眼色《めつき》をも読み得るようにもなった。恋の味もいつか覚えた。あるデザイアに促されて、人知れず汚ない業をすることもあった。世間は自分の前におもしろい楽しい舞台をひろげていると思うこともあれば、汚ない醜《みにく》い近づくべからざる現象を示していると思うこともある。自己の満《みた》しがたい欲望と美しい花のような世界といかになり行くかを知らぬ自己の将来とを考える時は、いつも暗いわびしいたえがたい心になった。
 熊谷にいる友人の恋の話から Art の君の話が出る。
「僕は苦しくってしかたがない」
「どうかする方法がありそうなもんだねえ」
 二人はこんなことを言った。
「昨日公園で会ったんさ。ちょっと浦和から帰って来たんだッて、先生、いたずらに肥えてるッていう形だッた」
 郁治はこう言って笑った。
「いたずらに肥えてるはいいねえ」
 清三も笑った。
「君のシスタアが友だちだし、先生のエルダアブラザアもいるんだし、どうにか方法がありそうなもんだねえ」
「まア、放っておいてくれ、考えると苦しくなる」
 胸にひそかに恋を包める青年の苦しさというような顔を郁治はして見せた。前にみずからも言ったように、郁治は好男子ではなかった。男らしいきっぱりとしたところはあるが、体格の大きい、肩の怒った、眼の鋭い、頬骨の出たところなど、女に好《す》かれるような点はなかった。
 若い者の苦しむような煩悶《はんもん》はかれの胸にもあった。清三にくらべては、境遇もよかった。家庭もよかった。高等師範にはいれぬまでも、東京に行って一二年は修業するほどの学費は出してやる気が父親にもある。それに体格がいいだけに、思想も健全で、清三のようにセンチメンタルのところはない。清三が今度の弥勒《みろく》行きを、このうえもない絶望のように――田舎《いなか》に埋《うずも》れて出られなくなる第一歩であるかのように言ったのを、「だッて、そんなことはありゃしないよ、君、人間は境遇に支配されるということは、それはいくらかはあるには違いないが、どんな境遇からでも出ようと思えば、出て来られる」と言ったのでも、郁治の性格の一部はわかる。
 その時、清三は、
「君はそういうけれど、それは境遇の束縛の恐ろしいことを君が知らないからだよ、つまり君の家庭の幸福から出た言葉だよ」
「そんなことはないよ」
「いや、僕はそう思うねえ、僕はこれっきり埋《うも》れてしまうような気がしてならないよ」
「僕はまた、かりに一歩|譲《ゆず》って、人間がそういう種類の動物であると仮定して
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