免なさい」という声を先にたてて、建《た》てつけの悪い大和障子《やまとしょうじ》をあけようとする人がある。
 母親が立って行って、
「まア……さあ、どうぞ」
「いいえ、ちょっと、湯に参りましたのですが、帰りにねえ、貴女《あなた》、お宅へあがって、今日は土曜日だから、清三さんがお帰りになったかどうか郁治《いくじ》がうかがって来いと申しますものですから……いつもご無沙汰ばかりいたしておりましてねえ、まアほんとうに」
「まア、どうぞおかけくださいまし……、おや雪さんもごいっしょに、……さア、雪さん、こっちにおはいりなさいましよ」
 と女同士はしきりにしゃべりたてる。郁治の妹の雪子はやせぎすなすらりとした田舎《いなか》にはめずらしいいい娘だが、湯上がりの薄く化粧《けしょう》した白い顔を夕暮れの暗くなりかけた空気にくっきりと浮き出すように見せて、ぬれ手拭いに石鹸箱を包んだのを持って立っていた。
「さア、こんなところですけど……」
「いいえ、もうそうはいたしてはおりませんから」
「それでもまア、ちょっとおかけなさいましな」
 この会話にそれと知った清三は、箸《はし》を捨てて立ってそこに出て来た。母親どもの挨拶し合っている向こうに雪子の立っているのをちょっと見て、すぐ眼をそらした。
 郁治の母親は清三の顔を見て、
「お帰りになりましたね、郁治が待っておりますから……」
「今夜あがろうと思っていました」
「それじゃ、どうぞお遊びにおいでくださいまし、毎日行ったり来たりしていた方が急においでにならなくなると、あれも淋《さび》しくってしかたがないとみえましてね……それに、ほかに仲のいいお友だちもないものですから……」
 郁治の母親はやがて帰って行く。清三も母親もふたたび茶湯台《ちゃぶだい》に向かった。親子はやはり黙って夕飯を食った。
 湯を飲む時、母親は急に、
「雪さん、たいへんきれいになんなすったな!」
 とだれに向かって言うともなく言った。けれどだれもそれに調子を合わせるものもなかった。父親の茶漬けをかき込む音がさらさらと聞こえた。清三は沢庵《たくあん》をガリガリ食った。日は暮れかかる。雨はまた降り出した。

       六

 加藤の家は五町と隔たっておらなかった。公園道のなかばから左に折れて、裏町の間を少し行くと、やがていっぽう麦畑いっぽう垣根《かきね》になって、夏は紅《くれない》と白の木槿《もくげ》が咲いたり、胡瓜《きゅうり》や南瓜《とうなす》が生《な》ったりした。緑陰《りょくいん》の重《かさ》なった夕闇に螢《ほたる》の飛ぶのを、雪子やしげ子と追い回したこともあれば、寒い冬の月夜を歌留多《かるた》にふかして、からころと跫音《あしおと》高く帰って来たこともあった。細い巷路《こうじ》の杉垣の奥の門と瓦屋根、それはかれにとってまことに少なからぬ追憶《おもいで》がある。
 今日は桜の葉をとおして洋燈《らんぷ》の光がキラキラと雨にぬれて光っていた。雪子の色の白いとりすました顔や、繁子のあどけなくにこにこと笑って迎えるさまや、晩酌に酔って機嫌よく話しかける父親の様子《ようす》などがまだ訪問せぬうちからはっきりと目に見えるような気がする。笑い声がいつも絶えぬ平和な友の家庭をうらやましく思ったことも一度や二度ではなかった。
 郡視学といえば、田舎《いなか》ではずいぶんこわ[#「こわ」に傍点]持《も》てのするほうで、むずかしい、理屈ぽい、とりつきにくい質《たち》のものが多いが、郁治の父親は、物のわかりが早くって、優しくって、親切で、そして口をきくほうにかけてもかなり重味《おもみ》があると人から思われていた。鬚《ひげ》はなかば白く、髪にもチラチラ交《まじ》っているが、気はどちらかといえば若いほうで、青年を相手に教育上の議論などをあかずにして聞かせることもあった。清三と郁治と話している室《へや》に来ては、二人を相手にいろいろなことを語った。
 門をあけると、ベルがチリチリンと鳴った。踏み石をつたって、入り口の格子戸の前に立つと、洋燈《らんぷ》を持って迎えに出たしげ子の笑顔が浮き出すように闇の中にいる清三の眼にうつった。
「林さん?」
 と、のぞくようにして見て、
「兄さん、林さん」
 と高い無邪気な声をたてる。
 父親は今日熊谷に行って不在であった。子供がいないので、室がきれいに片づいている。掃除も行き届いて、茶の間の洋燈《らんぷ》も明るかった。母親は長火鉢の前に、晴れやかな顔をしてすわっていた。雪子は勝手で跡仕舞《あとじま》いをしていたが、ちょうどそれが終わったので、白い前掛けで手を拭き拭き茶の間に来た。
 挨拶をしていると、郁治は奥から出て来て、清三をそのまま自分の書斎につれて行った。
 書斎は四畳半であった。桐《きり》の古い本箱が積み重ねられて、綱鑑易
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