始めて知れた時、かれは限りない喜びを顔にたたえて、
「母《おっか》さん! 遼陽が取れた!」
とさもさもうれしそうに言った。
それからいろいろな話を母親にしてきかせた。二千何人という死傷者の話をもしてきかせた。戦争の話をする時は、病気などは忘れたようであった。蒼白《あおじろ》いやせた顔にもほのかに血が上《のぼ》った。医師《いしゃ》が来て、新聞などは読まないほうがいいと言った。病人自身にしても、細《こま》かい活字をたどるのはずいぶん難儀であった。手に取っても五分と持っていられない。疲れてじきそばに置いてしまった。時には半分読みかけた頁《ページ》を、鬚《ひげ》の生《は》えたやせた顔の上に落として、しばらくじっとしていることなどもある。
日本が初めて欧州の強国を相手にした曠古《こうこ》の戦争、世界の歴史にも数えられるような大きな戦争――そのはなばなしい国民の一員と生まれて来て、その名誉ある戦争に加わることもできず、その万分の一を国に報いることもできず、その喜びの情《じょう》を人並みに万歳の声にあらわすことすらもできずに、こうした不運《ふしあわせ》な病いの床に横《よこ》たわって、国民の歓呼の声をよそに聞いていると思った時、清三の眼には涙があふれた。
屍《かばね》となって野に横たわる苦痛、その身になったら、名誉でもなんでもないだろう。父母《ちちはは》が恋しいだろう。祖国が恋しいだろう。故郷《ふるさと》が恋しいだろう。しかしそれらの人たちも私よりは幸福だ――こうして希望もなしに病《やまい》の床に横たわっているよりは……。こう思って、清三ははるかに満州のさびしい平野に横たわった同胞を思った。
六十二
枕もとにすわった医師《いしゃ》の姿がくっきりと見えた。
父親はそれに向かって黙然《もくねん》としていた。母親は顔をおおって、たえずすすりあげた。
室《へや》のまんなかにつったランプは、心《しん》が出過ぎてホヤがなかば黒くなっていた。室には陰深《いんしん》の気が充ちわたって、あたりがしんとした。鬚《ひげ》を長く、頬骨《ほおぼね》が立って、眼をなかば開いた清三の死《し》に顔《がお》は、薄暗いランプの光の中におぼろげに見えた。
医師の注射はもう効《かい》がなかった。
母親のすすりあげる声がしきりに聞こえる。
そこに、戸口にけたたましい足音がして、白地の絣《かすり》を着た荻生さんの姿があわただしくはいって来たが、ずかずかと医師《いしゃ》と父親との間に割り込んですわって、
「林君! ……林君! もう、とうとうだめでしたか!」
こう言った荻生さんの頬を涙はホロホロと伝った。
母親はまたすすりあげた。
遼陽占領の祭りで、町では先ほどから提灯行列がいくたびとなくにぎやかに通った。どこの家の軒にも鎮守《ちんじゅ》の提灯が並んでつけてあって、国旗が闇にもそれと見える。二三日前から今日占領の祭りをするという広告をあっちこっちに張り出したので、近在からも提灯行列の群れがいく組となくやって来た。荻生さんは危篤《きとく》の報を得て、その国旗と提灯と雑踏《ざっとう》の中を、人を突《つ》き退《の》けるようにして飛んで来た。一時間ほど前には清三はその行列の万歳の声を聞いて、「今日は遼陽占領の祭りだね」と言って、そのにぎやかな声に耳を傾けていた……。
今、またその行列が通る。万歳を唱《とな》える声がにぎやかに聞こえる。やがて暇《いとま》を告げた医師は、ちょうどそこに酸漿《ほおずき》提灯を篠竹《しのたけ》の先につけた一群れの行列が、子供や若者に取り巻かれてわいわい通って行くのに会った。
「万歳! 日本帝国万歳」
六十三
昼間では葬式の費用がかかるというので、その翌日、夜の十一時にこっそり成願寺《じょうがんじ》に葬ることにした。
荻生さんは父親をたすけてなにかれと奔走した。町役場にも行けば、桶屋に行って棺をあつらえてもやった。和尚《おしょう》さんは戦地から原杏花《はらきょうか》が帰るのを迎えに東京に行ってあいにく不在《るす》なので、清三が本堂に寄宿しているころ、よく数学を教えてやった小僧さんがお経を読むこととなった。近所の法類からしかるべき導師《どうし》を頼むほどの御布施《おふせ》が出せなかったのである。
夜は星が聰《さか》しげにかがやいていた。垣には虫の声が雨のように聞こえる。椿の葉には露がおいて、大家《おおや》の高窓からもれたランプの光線がキラキラ光った。木の黒い影と家屋《うち》の黒い影とが重なり合った。
棺が小路《こうじ》を出るころには、町ではもう起きている家はなかった。組合のものが三人、大家《おおや》のあるじ、それに父親に荻生さんとがあとについた。提灯が一つ造り花も生花もない列をさびしげに照らして、警察の角
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