だ兵力が足りなくって第八師団も今度旅順に向かって発《た》つという噂《うわさ》ですな」
「第九に第十二に、第一に……、それじゃこれで四個師団……」
「どうもあそこを早く取ってしまわないんではしかたがないんでしょう」
「なかなか頑強《がんきょう》だ!」
 と言って、病人は咳嗽《せき》をした。
 やがて、
「遼陽のほうは?」
「あっちのほうが早いかもしれないッていうことですよ。第一軍はもう楡樹林子《ゆじゅりんし》を占領して遼陽から十里のところに行ってますし、第二軍は海城《かいじょう》を占領して、それからもっと先に出ているようですし……」
「ほんとうに丈夫なら、戦争にでも行くんだがなア」
 と清三は慨嘆《がいたん》して、「国家のために勇ましい血を流している人もあるし、千載《せんざい》の一遇《いちぐう》、国家存亡の時にでっくわして、廟堂《びょうどう》の上に立って天下とともに憂《うれ》いている政治家もあるのに……こうしてろくろくとして病気で寝てるのはじつに情《なさけ》ない。和尚さん、人間もさまざまですな」
「ほんとうですな」
 和尚さんも笑ってみせた。
 しばらくして、
「原さんから便りがありますか?」
「え、もう帰って来ます。先生も海城で病気にかかって、病院に一月もいたそうで……来月の初めには帰って来るはずです」
「それじゃ遼陽は見ずに……」
「え」
 衰弱した割合いには長く話した。寺にいる時分の話なども出た。
 その翌日は弥勒《みろく》の校長さんが見舞いにやって来た。
「こんなになってしまいました」
 と細い手を出して見せた。
「学校のほうはいいようにしておきますから、心配せずにおいでなさい、欠席届けさえ出しておくと、二月は俸給がおりるんですから」
 校長さんはこう言った。
 戦争の話が出ると、
「おそくも、休暇中には旅順が取れると思ったですけれどなア。よほどむずかしいとみえますな。このごろじゃ容易に取れないなんて、悲観説が多いじゃないですか。常陸丸《ひたちまる》にいろいろ必要な材料が積んであったそうですな」
 こんなことを言った。
 二三日して、今度は関さんが来た。女郎花《おみなえし》と薄《すすき》とを持って来てくれた。弥勒《みろく》の野からとったのであると言った。母親は金盥《かなだらい》に水を入れて、とりあえずそれを病人の枕《まくら》もとに置いた。清三はうれしそうな顔をしてそれを見た。
 関さんはやがて風呂敷包みから、紙に包んだ二つの見舞いの金を出した。一つには金七円、生徒一同よりとしてあった。一つは金五円、下に教員連の名前がずらりと並べて書いてあった。

       六十一

 遼陽の戦争はやがて始まった。国民の心はすべて満州の野に向かって注がれた。深い沈黙の中にかえって無限の期待と無限の不安とが認められる。神経質になった人々の心はちょっとした号外売りの鈴の音にもすぐ驚かされるほどたかぶっていた。そうしている間にも一日は一日とたつ。鞍山站《あんざんてん》から一押《ひとお》しと思った首山堡《しゅざんぽ》が容易に取れない。第一軍も思ったように出ることができない。雨になるか風になるかわからぬうちに、また一日二日と過ぎた。――その不安の情《じょう》が九月一日の首山堡占領の二号活字でたちまちにしてとかれたと思うと、今度は欝積《うっせき》した歓呼の声が遼陽占領の喜ばしい報につれて、すさまじい勢いで日本全国にみなぎりわたった。
 遼陽占領! 遼陽占領! その声はどんなに暗い汚ない巷路《こうじ》にも、どんな深い山奥のあばら家にも、どんなあら海の中の一孤島にも聞こえた。号外売りの鈴の音は一時間といわずに全国に新しいくわしい報をもたらして行く。どこの家でもその話がくり返される、その激しかった戦いのさまがいろいろに色彩《いろどり》をつけて語り合わされる。太子河《たいしが》の軍橋を焼いて退却した敵将クロパトキンは、第一軍の追撃に会ってまったく包囲されてしまったという虚報《きょほう》さえ一時は信用された。
 全都国旗をもって埋まるという記事があった。人民の万歳の声が宮城の奥まで聞こえたということが書いてあった。夜は提灯行列《ちょうちんぎょうれつ》が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門《さくらだもん》付近|馬場先門《ばばさきもん》付近はほとんど人で埋めらるるくらいであったという。京橋日本橋の大通りには、数万燭の電燈が昼のように輝きわたって、花電車が通るたびに万歳の声が終夜聞こえたという。
 清三はもう十分に起き上がることができなかった。容体《ようだい》は日一日に悪くなった。昨日は便所からはうようにしてかろうじて床にはいった。でも、その枕もとには、国民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあって、やせこけて骨立った手が時々それを取り上げて見る。
 遼陽の占領が
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