「ナアに、こんな病気に負けておりゃせんから、母《おっか》さん。心配しないほうがいいよ。今死んでは、生まれて来たかいがありゃしない」
「ほんとうともねえ、お前」
「世の中というものは思いのままにならないもんだ!」
 言葉は強かったが、一種の哀愁は仏壇の灯《あかり》のみ明るい一室に充ちわたった。
        *    *    *    *    *
 隣近所では病人が日増《ひま》しに悪くなるのを知った。医師《いしゃ》が毎日|鞄《かばん》を下げてやって来る。荻生さんが心配そうな顔をしてちょいちょい裏からはいって来る。一週間前までは、蒼白にやせはてた顔をして、頭髪《かみのけ》をぼうぼうさせて、そこらをぶらぶらしている病人の姿を人々はよく見かけたが、このごろでは、もうどっと床について、枕を高く、やせこけて、螽斯《ばった》のようになった手を蒲団《ふとん》の外になげだすようにして寝ているのが垣の間から見える。井戸端などで母親に容体を聞くと、「どうも少しでもいいほうに向かってくれるといいのですけれど……」と言って、さもさも心配にたえぬような顔をした。
 肺病だろうということは誰も皆前から想像していた。「どうも咳嗽《せき》の出るのが変だと思ってました」と隣りの足袋屋《たびや》の細君《さいくん》が言った。「どうも肺病だッてな、あの若いのに気の毒だなア。話好きなおもしろい人だのに……」と大家《おおや》の主人《あるじ》も老妻《かみさん》に言った。「一人息子をあれまで育てて、これからかかろうという矢先にそんな悪い病気に取《と》っつかれては……」と老妻《かみさん》はしみじみと同情した。あっちこっちから見舞いを持って行くものなどもだんだん多くなる。大家の主人《あるじ》がある日一日釣って来た鮒《ふな》を摺《す》り鉢《ばち》に入れて持って行ってやると、めずらしがッて、病人はわざわざ起きて来て見た。それから梨を持って来るものもあれば林檎《りんご》を持って来るものもある。中には五十銭銀貨を一つ包んで来るものもあった。
 転任のむずかしいこと、たとえ転任ができても、この体では毎日の出勤はおぼつかないということがしだいに病人にもわかってきた。かれは郁治《いくじ》にあてて、病気で休んでいれば何か月間俸給がおりるかということを父の郡視学に聞いてもらうように手紙を書いた。やがてその返事が来て埼玉県令十号の十三条に六十日の病気欠席は全俸《ぜんぽう》(願書《がんしょ》診断書付《しんだんしょつ》き)その以後二か月半俸としてあることを報じて来た。

       五十九

 行田の町の中ほどに西洋造《せいようづく》りのペンキ塗《ぬ》りのきわだって目につく家《うち》があった。陶器の標札には医学士原田龍太郎とあざやかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。
 午前十時ごろの晴れた日影は硝子《がらす》をとおした診察室の白いカアテンを明るく照らした。
 診察が終わって、そこから父親と荻生さんとにたすけられて出て来たのは、二三日来ますます衰弱した清三であった。荻生さんが万一を期して、ヤイヤイ言ってつれて来た親切は徒労に帰した。医師《いしゃ》は父親と友とに絶望的宣告を与えたようなものであった。
 荻生さんが懇意《こんい》なので、別室できくと、
「いま少し早くどうかすることができそうなものだった」
 医師はこう言った。
「やっぱり、肺でしょうか」
「肺ですな……もう両方とも悪くなっている!」
 荻生さんはどうすることもできなかった。眼眩《めまい》がしてそこに立っていられぬ病人をほとんどかかえるようにして車に乗せた。「車に乗せてつれて来るのはちとひどかったね」と言った医師《いしゃ》の言葉を思い出して、「医師をよんでは車代がたいへんだから……五円ではあがらないから、私が車に乗せてつれて行ってあげる」と言ったことを悔いた。
 その二里の街道には、やはり旅商人《たびあきんど》が通ったり、機回《はたまわ》りの車が通ったり、自転車が走ったりしていた。尻をまくって赤い腰巻を出して歩いて行く田舎娘もあった。もう秋風が野に立って、背景をつくった森や藁葺《わらぶき》屋根や遠い秩父《ちちぶ》の山々があざやかにはっきり見える。豊熟した稲は涼しい風になびきわたった。
 幌《ほろ》をかけた車はしずかに街道をきしって行った。
 七色の風船玉を売って歩く老爺《おやじ》のまわりには、村の子供がたかっていた。

       六十

 寺の和尚《おしょう》さんが鶏卵《たまご》の折りを持って見舞いに来た。
 和尚さんもしばらく会わぬ間に、こうも衰弱したかとびっくりした。
 わざと戦争の話などをする。
「旅順がどうも取れないですな」
「どうしてこう長びくんでしょう」
「ステッセルも一生懸命だとみえますな。ま
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