よ。どうも肺という徴候はないようだが、ただの胃腸とも違うようなところがあると言ってました。なんにしても足に腫気《すいき》がきたのはよくないですな……医師の見立《みた》てが違っているのかもしれませんから、行田の原田につれて行って見せたらどうです? 先生は学士ですし、評判がいいほうですから」
 そして、そういうつもりがあるなら、自分が一日局を休んでつれて行ってやってもいいと言った。
「どうも、ご親切に……お礼の申し上げようもない」
 母親の声は涙に曇った。
 弥勒《みろく》に俸給を取りに行った翌日あたりから、脚部《きゃくぶ》大腿部《だいたいぶ》にかけておびただしく腫気が出た。足も今までの足とは思えぬほどに甲がふくれた。それに、陰嚢《いんのう》もその影響を受けて、起《た》ち居《い》にもだんだん不自由を感じて来る、医師は罨法剤《あんぽうざい》と睾丸帯《こうがんたい》とを与えた。
 蘇鉄《そてつ》の実を煎《せん》じて飲ませたり、ご祈祷を枕もとであげてもらったり、不動岡《ふどうおか》の不動様の御符《ごふ》をいただかせたり、いやしくも効験《こうけん》があると人の教えてくれたものは、どんなことでもしてみたが、効がなかった。秋風が立つにつれて、容体《ようだい》の悪いのが目に立った。
 やがて盂蘭盆《うらぼん》がきた。町の大通りには草市《くさいち》が立って、苧殻《おがら》や藺蓆《いむしろ》やみそ萩や草花が並べられて、在郷から出て来た百姓の娘たちがぞろぞろ通った。寺の和尚《おしょう》さんは紫の衣を着て、小僧をつれて、忙しそうに町を歩いて行った。茄子《なす》や白瓜や胡瓜《きゅうり》でこしらえた牛や馬、その尻尾《しっぽ》には畠から取って来た玉蜀黍《とうもろこし》の赤い毛を使った。どこの家でも苧殻《おがら》[#「苧殻」は底本では「績殻」]で杉の葉を編《あ》んで、仏壇を飾って、代々の位牌《いはい》を掃除して、萩の餅やら団子やら新里芋やら玉蜀黍《とうもろこし》やら梨やらを供えた。
 女の児は新しい衣《きもの》を着て、いそいそとしてあっちこっちに遊んでいた。
 十三日の夜には迎え火が家々でたかれる。通りは警察がやかましいので、昔のように大仕掛《おおじか》けな焚火《たきび》をするものもないが、少し裏町にはいると、薪《たきぎ》を高く積んで火を燃している家などもあった。まわりに集まった子供らはおもしろがってそれを飛んだりまたいだりする。清三の家では、その日父親が古河《こが》に行ってまだ帰って来なかったので、母親は一人でさびしそうに入り口にうずくまって、苧《お》[#「苧」は底本では「績」]がらを集めて形ばかりの迎え火をした。大家《おおや》の入り口にはいま少し前|焚《た》いた火の残りが赤く闇に見える。
 軒には昨年の盆に清三が手ずから書いた菊の絵の燈籠《とうろう》がさげてある。清三は便所に通うのに不便なので、四五日前から、床《とこ》を下の六畳に移した。
 風にゆらぐ盆燈籠をかれはじっと見ていた。大家の軒の風鈴《ふうりん》の鳴る音がかすかに聞こえる。仏壇には灯《あかり》がついていて、蓮《はす》の葉の上に供《そな》えた団子だの、茄子《なす》や白瓜でつくった牛馬だの、真鍮《しんちゅう》の花立てにさしたみそ萩などが額縁《がくぶち》に入れた絵のように見える。明るい仏壇の中はなんだか別の世界でもあるかのように清三には思われた。
 母親がそこへはいって来て、
「病気でないと、政一《まさいち》(弟の名)のところにもお参りに行ってもらうんだけれど……今年は花も上げてくれる人もないッてさびしがっているだろう」
「ほんとうにさ……」
「父《おとっ》さんがつごうがよければ行ってもらいたいと思っていたんだけれど……」
「ほんとうに、遠くなって淋しがっているだろう」
 清三は亡くなった弟をしみじみ思った。
「明日あたり私がお参りに行こうかと思っているけれど……」
「ナアに、治ってから行くからいいさ」
 しばらく黙った。
 母子《おやこ》の胸には今月の払《はら》いのことがつかえている。薬代、牛乳――それだけでもかなり多い。今月は父親のかせぎがねっからだめだった上に、母親も病気で毎月ほど裁縫をしなかった。先ほど、医師《いしゃ》から勘定書きを書生が持って来たのを母親は申しわけなさそうにことわっていた。
「なアに、父さんが帰って来れば、どうにかなるから、心配せずにおいでよ」
 と母親はその時言った。
 父親が帰って来てもだめなことを清三は知っている。
「病気さえしなけりゃなア!」
 と清三は突然言った。
 やがて言葉をついで、「こんな病気にかかりさえしなけりゃ、今年はちっとは母さんにも楽をさせられたのになア!」
 母親はオドオドして、
「そんなことを思わないほうがいいよ。それより養生《ようじょう》して!」
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